住まい・インテリア

2009年2月 3日 (火)

ゴミ有料化を賞賛する

2月に研究室が箕面から豊中学舎に引っ越す。恥かしながら、研究室に持ち込む本や資料を整理していると、整理し切れていない資料の山の下から、雨ざらしのシミが残り(右肩)、カバーも汚れた、回転座椅子が現れた。曲げてもストッパーが利かず、捨てようと思いつつ捨てられず未整理山の盤になっていた。

Img_0408 いざ捨てようと思うと、西宮市は有料。回転椅子は600円のシールを買わねばならぬ。「エッ。重厚な回転椅子でもないのに…」。環境局に訊ねようかと思ったが、どうせ「600円は600円です」と、にべもなく言われて、カチンとくるに決まっている。そこで再検討。真新しいカバーをつけて、壁にもたれかけさせて使うことにした。

モノを次々消費することだけが豊かではないとは、理屈ではわかっていても、モノを活用せず、気が離れれば捨てようとする。モノとカネに追われる生活は、「百鬼夜行」と同じく、粗末に扱ったモノがつくも神となって襲ってくる様に似ている。反省自戒をこめて、ゴミ有料化は素晴らしい。西宮市環境局はエライ!
(愛媛県立博物館所属「百鬼夜行絵巻:江戸時代)引用:http://rekihaku.jugem.jp/?day=20070816 鍋・杓子・五徳・すりこぎの化け物)

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2009年2月 1日 (日)

狭小住宅に、塀や門は必要か?

我が家は、梅田12分、三宮13分の駅まで6分。広さより利便をとれば、114㎡が限界。この敷地面積で許された範囲で最大の建築面積をとれば、家の正面に車庫、それに自転車置き場をとれば、庭はほとんど不可能。Fig1前は4mの位置指定(建築基準法第42条第5項)道路であり狭い。ならば、塀も門もなしとした。ついでに、コンクリート舗装もやめた。

ところが、犬猫も喜んだ。野良や、つないでいない犬の、憤慨(糞害)に耐えない状況となる。しかたなく、写真のようなデザインで、窮状を訴えたところ、難問解決!Fig2

便利なところなのでクルマに乗らない。最近、クルマを手放した。ところが、クルマを停めないと、室内が道路から丸見え!。しかたなく、1/4ほどに木を植え、1/4 を木製可動式鉢置きとした。Fig3(平面、立面図:Y・T氏製図)

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2009年1月30日 (金)

【更新情報】「長屋の住み方」をUP

寝食分離という理念で戦後の団地2DKを開発した西山卯三先生と、少し世代が異なる森栗の長屋暮らしを比較し、日本の長屋誌を『都市住宅学』に書いた「長屋の住みとその評価について」をUPしました。建築学・都市計画学では、不良住宅・木造賃貸密集問題地区として、殲滅すべきものとされてきましたが、長屋の大切さ、意味を記述した論文です。まちなかの暮らし再発見、まちあるきのブームのなかで、参考になるかもしれません。

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2008年11月19日 (水)

鈴木毅理論を我田引水したソーシャルキャピタル狭小論への批判

鈴木 2000「人の『居方』」『JKKハウジング大学校講義録Ⅰ』小学館スクウェア

鈴木毅 2001「都市居住における個人の生活行動空間」『JKKハウジング大学校講義録Ⅱ』小学館スクウェア

を読んだ。鈴木のテーマは、「居方」。景観とプロクセミクス(人と人との距離・配置と関 係性 byエドワード・ホール)のあり方全体を対象とし、建築計画を考える(鈴木200054-56)のが、専 門だ。鈴木は、現代の都市計画が、単純な祝祭と日常アメニティとの組み合わせになりがちなことを批判し、都市の居場所とは何か?を問う。つまり、他者が居合わせる場としての都市像を考えようとしている(鈴木200063-64)。

そして、関係と認識の生成装置としての都市=都市に住む「てごたえ」(鈴木200066-67)こそが重要なのだと指摘する。では、どのような場に、我々はてごたえ=居場所 を感じるのか。鈴木は、遮蔽縁(しゃへいえん)【ギブソン「生態学 的視覚 論」】により、行動による流れる環境を認知するなかでの「てごたえ」=「奥 行きある見え」=景観の階層性を認知できる場 であると、結論付けている(鈴木200067-68)。居場所は、日常の世界と、別世との対 面の場にある。個室的空間でもなく、アミューズメントでもなく、その小さな接触点に居場所がある(鈴木200060)と鈴木はいう。ヤスパースのマージナルマンを出すまでもなく、卓見である。

そうなんだ。工学 や土木の分類・分析指標は、あまりに単純であきれかえることがある。鈴木はこの点も、見事に指摘している。たとえば、「生活の豊かさ指標」というのがある。項目は、住む、費やす、働く、育てる、癒す、遊ぶ、学ぶ、交わる、の8項目である。ところが、交わるの指標には老人会の加入率はあるが、若者の社会活動団体も入れても良いのに、「他に使える適当な指標がない」という理由で、入れられていない。指標のとりやすものだけで、交わるを評価できるのであろうかと鈴木は指摘する。また、公民館の数で「交わる」を評価している。しかし、公民館は、多様な人々が、交わり遊び、ときに学ぶところである。ところが、「生活の豊かさ指標」では、公民館を交わり指標にしかいれていない。鈴木は、特定施設を特定機能と結びつけて単 純化していると批判する(鈴木200146-48

。空間の多層的な見えを動態的に考察する鈴木からすれば、このような単 純化は我慢できない。そして、鈴木はJジェコブスを引用する。「立派な暮らしの価 値をおしはかるいくつかの試金石(学校、公園、小奇麗な住宅、あるいはそういったもの)が、すぐれた近隣住区を作るのだと考えられる風潮がある。もしこれが本当なら、人間の生活なんて何と簡単なものだろう・・・」(鈴木200153)と。

 近年、ソーシャルキャピタルと称する単 純指標を数 え上げ、何とか説 明しようとする計画 学の論文を見るが、制度と経 済 のなかで、ダイバシティと動態のダイナミズムがうごめく多層的現実 をみつめる鈴木やジェコブスの視点に学ぶ点が多かった。

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