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2017年8月

2017年8月26日 (土)

城下町 村上 鮭 政治対立 まちづくり誌 町屋 まちめぐり

矢野敬一『まちづくりからの小さな公共性ー城下町村上からの挑戦』ナカニシヤ出版、2017年
 町屋巡り観光の村上が登場するまでを、戊辰戦争以後の士族による鮭独占、士族権利喪失による戦後の乱獲、200海里経済水域による鮭のグローバス市場化から、地域文化への育成(平成12まで)。一方、昭和61年、武家屋敷修復保全から、平成11歴史的景観保全条例まで。また、平成10からの、町屋保全と人形様巡り、屏風まつりを経た町屋再生プロジェクトを、住民の食、住の暮らしぶりから、小さな公共性(行政領域が担う公共性と対比されるボランタリーアソシエーションによって担われるもの(pp12-13)概念で描いている。
 地域の権力問題をも含めた活き活きした記述は、宮本常一の離島振興法や林業調査会の記述を思わせるものがある。興味深いことは、鮭、武家屋敷修復、町屋保全は、対象のみならず、担い手も違うが、時代のバトンを受け渡すごとき展開し、今日の観光を活かした村上の自律的まちづくりにつながっている。
 読みごたえのあるまちづくり誌である。
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■村上鮭産育養所 村上藩の種川の制は、殖産として天命寛政(1780-90年代)始まり、明治維新以後(明治6から臨時、明治11から永遠貸与)、士族が三面川の漁業権を借用し独占し、孵化事業をおこなった施設。収益は教育に投資され、秀才教育費を与えられた「鮭の子」が育ち、官吏となった。その結果、士族を主とする村上本町は、町人の村上町との合併を拒否し、昭和21年になって、ようやく合併した。(pp24-30)
 産卵後の鮭の「おさらい」の配当に受ける士族は、鮭の焼漬け、塩引きの風があるが町人にはない。
■鮭について
昭和26 新漁業法 村上鮭産育養所解散、3漁業組合に⇒乱獲、3漁協競争
昭和38 3漁協合併
昭和51 沿岸漁業整備開発法(つくる漁業)
昭和52 各国が200海里水域設定⇒北洋サケマス船団半減、昭和62年終焉。
昭和52 一括採捕=養殖
1980年代(昭和55以降) 輸入鮭の大量流入、ノルウェー養殖鮭⇒値崩れ
昭和58 サーモンパーク、鮭文化伝承館(イヨボヤ会館)
(伝承と育成を目指し=鮭調理実習)⇒北海道池田を視察後(pp39-49)
昭和50年代後半 「鮭料理百種類」言説、「止め腹」言説があらわれる(pp50-57)
昭和末~平成 統合した村上小学校の総合的学習で鮭の孵化、放流、他学校提供(pp58-59)
平成12 11月11日を鮭魂祭開始(西奈弥羽黒神社[町人町]と藤基神社[武家町]とで交互に)(pp59-60)
◆観光(のみならず事象)の真正性は、対象に内在するものでも、時代に固定されるものでもなく、社会的プロセスそのものである(意訳:読み手)(ブルーナー、エドワード『観光と文化 旅の民族誌』安村克己他訳、学文社、2007年、p243)。真正性がひとつの物語であるなら、そのエヴィデンスはプロセスにおけるコミュニケーションそのものになかにある。(「実践政策学のためのエピソード記述の方法序論」 実践政策学のためのエピソード記述の方法序論」
 矢野は活き活きした物語記述に成功している。
■武家屋敷修復保存について
戊辰戦争後 城跡は鮭産育養所(士族)の所有で、手付かず放置された
昭和47 寄付による鉄筋コンクリート天守復元計画⇒市民参加なく頓挫
昭和61 若林家住宅修復保存工事着工(地元3社共同企業体)
昭和62 武家屋敷保存研究会発足
昭和63 武家屋敷シンポジューム
(研究会+建築士会青年部・法人会青年部・商工会議所青年部・青年団連絡協議会)⇒村上21(ボランタリーアソシエーションとしてのネットワーク)(pp87-91)
  こうして戊辰戦争の歴史:武家の記憶⇒から⇒城下町の歴史的風土(若林住宅)となる(p92)
平成元 (ふるさと創生1億円)お城山周辺整備(ライトアップ、仮設板塀)
平成2 ふるさとフォーラム「伝承・文化そして未来」(p94)
平成3 浄念寺本堂 国指定史跡に
平成5 村上城跡 国指定史跡に
平成6~10 (雅子皇太子妃慶祝行事) 3武家屋敷移築保存 旧成田家住宅復元公開
平成9 第20回全国町並みゼミ大会 村上開催(p95)
平成11 歴史的景観保全条例
平成12 新潟県町並みシンポジュームIN村上
■町屋保全と活用
平成10 村上町屋商人会(茶の間まで客を通す)22店(p111)
平成10 道路拡幅反対署名:挫折(p110)
平成11 吉川家住宅 登録文化財
平成12 第1回町屋の人形様巡り→NHK新日曜美術館企画提案(p143)←大浜人形の伝統(p135-136)
    ←酒店の茶の間では、モッキリ(行員が上がりがまちで飲酒) 元々接客の場(p162-3)
      茶の間に座を設ける(和菓子屋早撰堂)(p174)
   ⇒活私開公 ともいえる
平成12 地域活性化大賞(p144)
平成13 ギャラリーやまきち 独自再生 魚卸商の茶の間は小売商との清算、対話(p172-3)
平成13 町屋の屏風まつり←7月の村上大祭では屏風を出していた(p115-117)
平成14 宵の竹灯篭まつり (黒塀プロジェクト)←ボランティア、外部開放(p196)
                        村上大祭は女人禁制、町ごと(p208)
                        護摩祈祷もこの機会に 大商店街の建物
                        村上大祭の地縁組織も動く
平成15 益甚酒店 登録文化財
平成16 村上町屋再生プロジェクト←武家屋敷修復に関わった大工(p119)
平成18 JTB交流文化賞優秀賞(p144)

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2017年8月 6日 (日)

寄りあいワークショップ 山浦晴男『地域再生入門』

山浦晴男『地域再生入門』筑摩書房、2015年

 中身は、相互評価型KJ法の図化によるわかちあい応用実践である。それをわざわざ「寄りあい」と表現するのは、
 宮本常一『忘れられた日本人』の寄りあい を
・納得するまで話し合い
・誰かの意見が尊重されるのではなく平等に議論
  に特色を見ている pp51-52 からである。
納得、平等の議論の結果、それを見える化すると、「みんなの思いは同じという安心感」とが生まれ、これが日本人の原動力となった p80 と見ている。

KJ法の手法は、情報の見える化とその結果としての安心感・納得感の相互作用であろう。
 

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2017年8月 5日 (土)

場の論理とマネジメント と物語記述

伊丹敬之『場の論理とマネジメント』東洋経済新報社、2010年

 マネジメントの改革というと、組織や経営・場所の構造に解決策を求めたくなるが、本当は、わかりにくいディテールのプロセスこそ重要である(pp266-269)。
 
場:人びとが参加し、相互観察、コミュニケーションにより、情報の共有蓄積と心理的エネルギーのプロセスを生む枠組み。それは、外部指令無しに自己組織的に展開する(p31、42)

場の舵取りの経営的働きかけpp240-243
  舵取りのステップ          基本の経営行動
1 かき回す(ゆらぎを与える)   刺激
2 切れ端を拾い上げる     刺激と方向づけ
3 道をつける           方向づけ
4 流れをつける          方向づけと束ね
5 (仮)留めを打つ        束ね

 場のプロセスマネジメントのための舵取りの基本ステップ(pp240-243、修正)これがうまくいくと、情報の共有蓄積と心理的共振(連帯感)のみならず、解釈コードの共有化がなされる(p271、296)。
 事業の評価は、投資効果のような定量的なもののみではない。人びとの愛着とかやりがいなどは、アンケートの満速度で、無理やり説得しようとすることも少なくない。しかし、満足度は、結局、100%に近いものになり、評価事体の正当性が怪しい。むしろ、定性的な評価、たとえば誰もが、そうだろうな、なるほどと納得する物語記述が、評価として必要なこともある。
  こうした物語記述は、一種の間接コミュニケーションの時間差の場を提供しているともいえる。物語記述は直接のコミュニケーションではなく、コミュニケーションのための素材を提示するのであるから、その物語を読んだだけで、なるほどと心を動かされる(刺激と方向づけ)、言葉の「切れ端」が必要である。さらには、その言葉の切れ端から、どのようなコミュニケーションが期待されるかを示した、結論ではないが、一定の流れをつけておくことは重要である。
 たとえば、客観的な記述ではなく、顔の見える個人が発する、生活感覚から「言葉」の断片を拾ってくることが物語では重要なのだ。客観的な記述ではなく、かといって留めを打つ結論でもなく、物語記述者が物語とのコミュニケーションを示した「こんなことを感じた」「ここに気づいた」などの、流れを示すことも、物語記述では重要である。

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2017年8月 4日 (金)

町内会は義務ですか

紙屋高雪、小学館新書、2014年
 町内会は、行政縦割ごとの下請け(老人クラブ、婦人会、青少協、環境委員会、防災委員会、防犯委員会、交通安全委員会、衛生委員会、体育協会、社会福祉協議会、PTA)組織からなる校区自治団体協議会(p78)に含まれて、その持ち回り当番をする。これでは、現役の人や、子育て中の人は参加できない。会合に誰か出せと強要され、拒否するとつるし上げられた。(pp160-170)
 で、班会議と全員アンケートをしっかりとって、全員合意のもとに自治会を休会にして、校区には出ず、必要な餅つきなどを必要な人のボランティアでするようにした。会費もなく、必要なときに集める。
 長い会議、不寛容で論理的でない決定、連続する会議と義務、会計の不明朗さ…。こんなことをやめて、ライトな町内会を始めたようである。(p170-188)

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非人、針、清須御園、乞食村、陰陽師、秀吉

服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版、2012年
 宮本常一「サンカの終焉」『山に生きる人々』を紹介し、天王寺駅西の市民病院のミカン山の莚小屋の大集落、都島橋の下の莚小屋集落を都市に定着したサンカとしている。p436
 秀吉は中村の生まれではなく、清須の三齋市がたった御園に育ち、後、中村の養父の下で育つという説もある。御園には御餌取屋敷があった。鷹狩のための生きた餌を確保していたという。秀吉の姉は、鷹匠弥介に嫁いでいた。清須には玄海という乞食村があった。秀吉の実父は不明で、母方は連雀(行商人)であった。秀吉には、針を売った伝承があり、連雀と針売りの意味を指摘したのは、石井進『中世のかたち』(中央公論、2002年)である。また秀吉は猿真似芸を供して針を売りをする伝承がある。秀吉は行商と雑芸を持つストリートチルドレンであった。秀吉がストリートチルドレンだとすれば、秀吉は清洲の乞食村玄海で拾われて育ったのではないか?という。pp561-568 状況証拠ばかりであるが、秀吉の周辺には非人や陰陽師が多数いたと類推される。
 そして、秀吉の子、鶴丸(早死)、秀頼は、陰陽師の設定した通夜参篭によって、淀殿が非嫡出出産(無種の秀吉の子でない)とした。その傍証には、宮本常一『忘れられた日本人』河内太子堂4月22日「一夜ぼぼ」が引用されている。秀吉の血でなくとも、秀吉の了解のもと、織田の血をひく女たちに、子ができることが重要であり、宗教的陶酔のなかで種が植えられた。ただし、秀頼のケースは、秀吉の承認は怪しく、妊娠発覚以後、激しい陰陽師払いがおきている。pp601-658

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