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2015年11月15日 (日)

岩田重則『日本人のわすれもの』現代書館、2014年

『忘れられた日本人』は冒頭、対馬での納得するまで合議する寄り合いを描き、後半は民謡の歌合戦が描かれている。月刊誌『民話』第5号(1959年)では、鈴木老人から聞いた歌合戦が記述され、中世的世界の俤が残っていると評しているが、『忘れられた日本人』では、中世的世界云々はなく、歌合戦の体験的再現をその場で現実にある生の存在として甦らせている(p17)。宮本もフィールドノートがないことを記述しており、記憶による再現、加筆が推測される。岩田は、宮本の記述は事実ではなく、宮本の感性で書き込んだハナシであることを指摘している。
 『河内瀧畑左近熊太翁旧事談』1937年では、熊太の語りは定着民として記述されたが、『忘れられた日本人』では、旅をする世間師としてハナシを語っている(p166)。同じネタでも、聞き書き報告の場合と、世間師ハナシとでは、異なった記述をしている。
 宮本の民俗調査は「旅」「歩き」と表現され(p172)、移動から見えてくる世界「歩く・見る・聞く」に重きを置いた。宮本の立場から村を見れば、「村は本来群であり、移動性の強い群が新しい新しい生活の場を見つけて移動していく。その伝統はその後もタタラ師や漁民の仲間にうけつがれていくが、それ以外のものは農耕に転じてって移住をはじめる」(宮本常一『双書・日本民衆史4 村のなりたち』未来社、1968年、p41)ということになり、移動が本来の村ということになり、漂白する人々を追って宮本は旅したのである。
 宮本の記述は事実ではなく、かつフィクションでもなく、移動することを含めたひとりひとりの人生に対する肯定的なハナシとしての再構成(p173)であると、岩田はいう。岩田は事実と宮本のハナシを混同してはいけないという。心せねばならない。
 しかし、聞き書きの再現的記述、エスノブラフィーにおいて、客観的事実は存在するのであろうか。岩田は、「複数の視線が重ねられた座標軸の接点にこそ、事実は存在する」(p173)というが、そうして得られる事実がもしもあったとしても、岩田はその事実で、何を言おう、何をしようというのだろうか。
 地域計画学、土木計画学における物語研究とは、一定の政策ビジョンに向けた生の存在が描かれた物語であり、精緻に記述された(ようにみえる)事実そのものが重要なのではない。地域計画学や土木計画学にとって、宮本の魅力、宮本民俗学の活用は、宮本の報告する事実ではなく、フィールドにもとづき心に訴えかけてくる、理想や願いのこもったハナシなのである。心が動かねば、政策は動かない。ハナシだからこそ、計画学に応用できるのである。

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