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2014年11月

2014年11月30日 (日)

サントリーとアサヒの狭間、大阪府京都府境界の山崎

山崎駅は、京都府と大阪府の境界にある。大山崎町は京都府だが、山崎幼稚園は大阪府島本町である。サントリー山崎醸造所は大阪府だが、山崎聖天と大山崎山荘は、京都府である。
この山城摂津境界に、中世の油座、水無瀬離宮が置かれ、対岸の石清水八幡の日使大神事に関わる大山崎神人が守護不入の地としてえごま独占権を得ていた。
 朝日新聞大阪本社を設計した藤井厚二は、1920年、京都帝国大学建築学科設立に加わった。藤井は山崎で1万坪を購入し、1928年から隔年で、和を活かした建築を建てていった。現存する「鴨竹居」などが建ち、民芸に関心を持つ知識人も集まった。
 一方、鳥居信治郎(サントリー創業者)は1923年に山崎にウイスキー醸造所を作り、技師として竹鶴政孝を迎える。竹鶴は、大阪での大家である芝川又四郎の紹介で、醸造所から谷二つ離れて別荘を持つ加賀正太郎に出会い、妻リタが加賀夫人に英語を教えた。竹鶴と加賀は、夕食、工場見学、ブレンディング批評、利き酒などの交流をした。
 1934年 竹鶴政孝が大日本果汁を興したとき、加賀が筆頭株主となり、芝川も出資している。加賀はご主人様と呼ばれたが、竹鶴は専務であった。北海道余市では、熟成までは100%リンゴジュース、熟成するとウイスキーを出荷した。実際は戦中となり、海軍への納入であった。
 1954年、加賀が株を朝日ビールに譲渡したため、ニッカは朝日グループとなっている。  朝日ビール初代社長の山本は、バーナード・リーチ、河井寛二郎の作品を収集し、柳宗悦などの民芸運動に共鳴していたが、山本の集めた民芸作品を展示するため、加賀の英国風別荘を、朝日のCSRとしてアサヒビール大山崎山荘美術館とした。
 日本最初のウイスキー醸造を始めたサントリー山崎工場では、竹鶴政孝の名前を見つけることはできないが、アサヒビール大山崎山荘美術館では、控えめに竹鶴と加賀との交流を紹介している。
 山崎は、京都と大阪、サントリーと朝日との、微妙な境界のなかで、日本のウイスキー文化を醸成してきた。ウィスキー醸造の境界都市は、硬い水と、淀川・桂川・木津川合流の谷あいという霧につつまれ、ウイスキーを熟成している。

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2014年11月21日 (金)

生活研究はグランドワークで発見し、発見で仮説検証し、納得をつくる

毎回の授業は、講義が45~60分、受講生20人にオープンなワークショップ(以下WSとよぶ)を30~45分、個人の発見をA4の紙に大きな字、20字以内に書いて、白板に貼って行う。通常のWSと違うのは、ポストイットをKJ法で分類し模造紙に貼るといった、班活動ではない。限られた時間のなかで、皆が一言づつA4紙に書いて、それを白板で共有する、いわばオープンワークである。
 私は、この方法を、フィールドワーク、まちづくりの現場でも、ときには行政の委員会・講演会でもとることがある。課題が横たわる臨床の現場groundにおける、総合的総体的なgrandこの見える化議論を、私は「グランドワーク」(以下、GWとよぶ)と呼んでいる。
 10月から「地域交通コミュニケーション」の授業を受けてきた大学院生は、グランドワークに慣れてきた。ところが慣れてくると、「□□の悲劇」などといったメタファーや、個人の感想ではなく、自分の専門からの意見を書く学生がいる。これでは机上の既存知識の分断表示であり、発見がない。
 生活世界は、自明の生活ゆえに課題が見えない。生活交通を議論している授業では、知識を切り売りするのではなく、教科書など提示した事実から、生活世界の問題を発見することが重要である。
 そこで、次回の授業では、宿題として教科書の序章と第4章を読んでくるようにいっており、以下のような挑戦を、受講生にしようと思う。
「個々の感想ではなく、ましてや個々の先入観による評論、意見ではなく、ましてや、ひとり合点の下手なメタファーなどもっての他である。ただ、教科書に書かれた事実から、己の身体で、気になる事実をそのままに、または要約して具体的に切り取ってください」と伝えて、作業をさせたい。
 身体で切り取るとはどういうことか。教科書に書かれた記述に対して自分のことのように感じ(対話し)、そして発見する(他者発見)瞬間。または、自己を他者のように扱い(記述と対話して)、自己の内面を発見する(自己発見)の瞬間。すなわち、他者発見と自己発見という、身体知の裏表を、丁寧に切り取って欲しい。発見の瞬間こそは、気になり、付箋をつける瞬間である。
 結果、自他の異質性の認識により、わかっていないことを自覚する者こそ、信頼できる対話のパートナーたりえる。フィールドのメディエータたりえ、信頼が生まれる。個別の専攻や、博士後期課程の院生とかいう権威性を帯びない、立場を越えたわかちあいができる。これは、まちづくりフィールドに学生を関与観察させ、学生・住民相互の発見をうながすコミュニケーションと同様である。
 フィールドワーク事後のWSでよく使われるKJ法は、小さな発見をまとめていった仮説の創発である。人間の実践への仮説適用は一回性のものであるから、問題意識の妥当性こそが重要となる(川喜田『発想法』1967、中公新書)
 生活世界の研究では、仮説創発のなかで、感情、感性、想像力による相互浸透力が深まる交流の瞬間、まさに腑に落ちる(納得)の瞬間がたちあらわれる。
 生活交通を学習するとは、問題解決技術ではなく、問題発見による仮説創発なのである。だからGWをするのである。

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2014年11月12日 (水)

人吉山産物問屋立山商店、20年ぶりの訪問

1991~4年、民俗学をやっていた頃、九州山地の人吉で、山産物問屋を見つけた。
海産物は聞いたことがあるが、山産物は珍しい。話を伺うと、炭焼、椎茸、和紙などの生産、問屋と山子との祭礼での交流など教えていただいた。
 福岡のコンサル、よかネットと久留米市に立ち寄り、球磨の集落支援員のお話を伺いにいったついでに、20年ぶりに立山に立ち寄った。
 朝8時、まだ早いので人吉市街の公衆浴場を探した。「新温泉」は午後からで入れず、ぶらぶらしていると、「うぐいす温泉」を発見、近づくと明かりが灯っている。Photo_2
(最近、休止して再開したばかりだそうだ。運営は楽ではない)Photo_3
ぬっとりした温泉が市内に複数あるが、蒸気機関車でまち歩きに来る観光客は、誰も立ち寄らない。もったいない。
 9時になったので、鍛治町の立山を、こわごわ訪れた。20年のご無沙汰で敷居が高い。最後まで残っていた鍛冶屋は廃業し、その道具が道沿いの出窓に展示されていた。
 その隣に懐かしい店構え。
 思い切って入っていくと、お嫁さんが「まあー、森栗先生・・・」
覚えていただいていたのである。感激して、庭の見える大きなガラスの店に座り、お詫びかたがた、阪神大震災以後のまちづくり活動、大阪大学との統合で外大から移動したことを話した。「おばあさんは・・・」
 大病を患い、寝込んでいたが、最近、少し回復、「もう少しすると起きてこれるでしょう」と話していたら、突然、昔お世話になった立山泰子さんが現れた。スッと背筋が伸びている。
「もう90になりました」というのだが、とても若々しい。
 次々話がはずみ、青井神社前に泰子さんが設けた町家ギャラリーに行こうということになった。久しぶりに泰子さんが町家ギャラリーに行くと、友人に出会って立ち話。「あれっ、杖を忘れた」Photo_4
昨日までついていた杖が、話し合っている間に、いらなくなってしまった。駐車場や町家前のデザイン、駅からの小路のサインなどを時間を忘れて話し合った。
 午後、肥薩線の観光列車で高原のループ線・スイッチバックで鹿児島に向かった。駅ごとに山産物の販売、交流があった。Photo_5
Fullsizerender

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2014年11月 3日 (月)

難波千日前の開発

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1870年 刑場廃止(千日前、溝の側の南側)
1871年 堀の内(目明し管理廃止)
1871-73年 西ノ坊院主と香具師(目明し親分)奥田弁次郎が、溝の側(三途の川といわれた)の芝居小屋を千日前に誘致
1873年 六坊幹事;葬儀屋藤原重助が、歌舞伎役者三勝半助追善供養興行
 ⇒大阪市中悪所(芝居小屋、泊所、遊所)のうち芝居小屋が移転
1874年 阿倍野新墓所移転
1877年 奥田弁次郎興行開始
1878年 千日前の大火⇒清めの火事⇒仮説小屋の開発促進
1888年 奥田小屋から大火⇒本小屋化、道路の一間セットバック
旧浪速区(大坂三郷・南新地の外、下難波村河原)が、こうして開発される。
 こうして、近代に開発された千日前は、市内より、法善寺より、より猥雑、かつ悪所的楽しみのある町となり、高度経済長期は、御園のキャバレー・ユニバース、千日前ビルなどの大型遊興施設が立地したが、最近は、衰退していると思いきや・・・
 裏難波の横丁がブームだという。地蔵尊横丁、ユニバース横丁、ファミリー横丁。個性豊かな町に、若者が集まっているという。
 最近の若者は、自宅に閉じこもっている、呑みに行かない、「家呑」みってどういうことやねん!と思っていたら、新しい魅力が再発見されているらしい。
 11月8日ABC「おはよう朝日」で放送

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