お彼岸なので、大阪天王寺の一心寺で施餓鬼供養をした。
私の父は、滋賀県から神戸に出、水上警察官をした祖父の8人兄弟姉妹の四男である。
ダンロップのゴム練り工の四男の父28歳に、昭和28年、滋賀県の親戚筋から23歳で新長田の長屋に嫁いだのが、母であった。徹夜のゴム練作業の明けは、新婚夫婦が長田区駒ヶ林の港で地引網を手伝い、魚を分けてもらったことがあったそうである。
翌昭和29年、私が生まれた。父はゴム練り明けには、私を市電に連れ出し、町を巡った。定期券があるからであろう。国鉄新長田駅から茶色の国電に乗り、隣の兵庫駅から山陽本線の汽車に乗り、デッキで長屋のある新長田を通過したことを覚えている。
昭和33年、父は市電終点の板宿に小さな一軒家を建てた。ひょっとすると、市電で町を巡った記憶は、この頃かもしれない。
昭和34年9月30日、ゴム練り明けの朝、父は前年なくなった祖父を追いかけるように、国鉄灘駅で夜行急行に飛び込んだ。自宅に突然、警察官が現れ、私は混乱する母のもとを離れ、叔父の長田区の長屋に預けられた。再度、自宅に戻ると、葬儀の準備ができており、二部屋の奥の台所の米櫃に使っていた一斗缶の上で私は泣いていた。叔父だったろうか、十円玉をやるから泣くなと言った。
祖父の時と同様、霊柩車が来て、火葬場の炉台に棺をのせ、皆が「熱いだろう」「熱いだろう」と樒で水を棺に擦りつけていた。焼きあがって再度炉に行き骨上げをした。コップくらいの小さな骨壷に骨上げされた骨は、家での祭祀が終わると、大阪の一心寺に納骨された。親戚一同が集まり、大阪に行き、大きな本堂で法要をすませて、骨壷を持って奥に行き、僧侶に骨壷を渡しどこかに骨壷を置いたとき、コトッという音がしたような記憶がある。故郷から切り離された神戸のダンロップ工員の骨は、他の、墓のない庶民の骨と一緒に練りあわされ、骨仏になる。お墓はないけれど、大阪一心寺に行けば、父に会えたのである。
私が5歳、弟が2歳の記憶である。それから55年後のお彼岸、母が亡くなって2年を経た9月のお彼岸、朝7時半、私とつれあいは、施餓鬼供養のため一心寺を訪れた。「お彼岸は混むから」と母に聞かされてきた私たちは、早朝に出かけたつもりであったが、すでに施餓鬼供養の塔婆を書いてもらう申込所には列ができていた。しばらく並んでいると名前が呼ばれ、数人いる受付の中央に居られた髭の僧侶の前に進み出た。父と母の戒名を書いた紙を差し出し、「おはようございます、よろしく願います。この2名が2000円、それに森栗家先祖代々を5000円で」と告げると、僧はそそくさと筆を走らせ、小さな塔婆2つ、大きな塔婆二つがまたたく間に出来上がった。ついで、セット式の位牌に設置する小さな板に、父母の戒名が並んで書いてもらった。
50年を経て、二人は並んで供養されることになった。暮らした神戸ではなく、大阪で。
大阪は、滋賀県から神戸に出た森栗の人々にとっては、里帰りの通過点に過ぎないが、骨だけは大阪一心寺に納めた。神戸にはこうしたものはなく、大都市大阪にしかなかった。私は、大阪教育大学天王寺学舎で学んだが、徒歩15分ほどの骨仏に参拝したことは一度もなかった。おそらく、お彼岸には母が毎度毎度、施餓鬼供養をしていたのであろう。
30年前、結婚してからは、優しいつれあいの配慮で、母と私とつれあいで、何度も一心寺の骨仏を参拝した。
今日、その一心寺で、二人の戒名が並んで書かれたのを見ていると、熱くなるものがあった。
事後、朝も早いので、阿倍野ハルカスに行ってみた。わざわざ行こうとは思わなかったが、まあ天王寺まで行ったのだからと、日本一のビルに登ってみることにした。
確かに高い。300m上空から見る大阪は、海と山河に囲まれた美しい町であった。眼下に一心寺が見え、その横に大阪教育大学が見える。
大阪で教育を学んだ私が、このおおきなまちで、子育て青少年の問題や、人々が心合わせるまちづくりで、役割を果たすチャンスをもらっていることに感慨深いものがある。
大阪は問題山積、できないことも多いけれでも、こんな欠点だらけの私を受け入れてくれたまち・人々である。そして、私が教育を学び、父母が眠る町である。
私を育ててくれた都市大阪に感謝して、齢60 どこまでできるかわからないが、この町のために精進努力したいと、改めて思った。
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