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2013年9月19日 (木)

中浜万次郎の村

 ジョン万次郎の中浜で話を聞いた。
 足摺岬の東側は、室戸からの鯨漁で住みついた集落。
 土佐清水をはじめとした西側の七浦は、漁業と廻船を有して商売をしていた。なかでも中浜には、山城屋 和泉屋  山善 山弥 丸西 5軒の廻船問屋があり、和泉儀三郎は5はいの船を持って、木材、炭、それに人材を集めていた。Nakahama
 明治からは鰹節業をはじめ、そこから5代目である。 
 和泉家は、元は四万十川河口の下田の網で財を成した和泉屋のわかれであり、その元は鳴門のクロサキ、その前が和泉といわれている。
 昔は漁の間にかサンゴを採っていた。神戸に運び輸出品にした。一部は、金剛福寺に奉納している。
  エンジンができて、七か浦のうち、深いネキの清水のみが栄えた。このエンジンを最初に導入したのは和泉屋と自負している。清水は後に、マグロの水揚げ港となる。
  50年前に船が19トン形(大型)となり、いろんな港に鰹をおろすようになった。
 こうなると、地元でとるめじか(ソーダ【宗田鰹】)は 年寄り仕事になった。それでも、バブルの頃は、めじかの商品価値も 上がった。よい蕎麦のだしになった。
 最近では、ソーダ鰹のだしも、インドネシア、フィリピンで作る。一方で蕎麦の出汁の需要も減り出した。
 鰹も巻き取り機械ができたので、ガンガンとるようになった。すると、単価が落ちる。
 大量にとるなかで、大釜とかカビ取り機械、製品を移出する輸送機器などを競争のように導入した。6000千万円くらいの設備になった。人材も取り合いになった。
 が、どんどん農林中金が貸してくれた時代があった。
 最近では、生のソーダ鰹を買い集める業者がおり、それをタイで缶詰にする。
 わしは、ハゲが大漁だったとき、味醂干しを作ってみたが、大量に作る愛媛との競争となり、勝てなかった。今は問屋、各地の鰹を集めて削り節にする仕事をしている。
 こんな時代は、欲を持たんと、損がない商売しかない。
 若い者には、産直宅配や産直レストラン、産直市など、自分で個々の販売ルートがないと難しい。
 ハガツオという柔らかい魚がある。おいしいが痛みやすいので移出できない。こういうものをどう活かすかが重要だ。地元で、値入の主導権が握れねば苦しい。

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