おわら名人、大工名人に拝謁
おわらは無形文化財にはならない。時代にあわせて、コミュニティが練りこんできたものである。
戦後一時期、因習として禁止され衰退したとき、川崎順二が、密かに町ながしをする姿を発見して、文化人を招いて踊り、唄を整備した。
諏訪町の名人、Sさんは、代々の大工。小学校ではトランペットを覚え、自宅のハーモニカは分解して吹いてみた。ギターや琴、左手で弦を抑え右手で弾くものは何でも見よう見まねでやったという。昭和19年尋常高等小学校を卒業すると、岩瀬浜の昭和電工に就職し、寮生活をしたが、そこでもトランペットをやった。
戦後、昭和21―25年 五箇山に大工仕事に行ったとき、「遊び」に行くというので、六角の枠提灯を持って田圃の中を歩き、あん摩をしていた盲目の三味線弾きの見事な麦屋節を聞き感動し、見よう見真似で三味線を習った。
22年、父母に話したところ、8月16日、三味線を買ってもらった。近隣におわらの三味線弾きがおり2日間習った。19・20日、指が二つ無い名人Aさんに習った。21日からおわらに向けてあわせ練習があり、必死でやり、9月2日にデビューした。その写真も見せていただいた。
Aさんは指が少ないので弦を巻き絞めることができないので、Sさんが付いてまわり、勉強になった。三味線は好きで、おわら一本やりで没頭せねばできない。
昭和の左甚五郎といわれた人(諏訪町出身)がおり、丹後まで技術を学びに行った。ヤマト組という木の組み方を学んだ。大工仕事に出なくなった今でも、からくりのある箪笥などを作っている。精密な仕掛けは、鉛筆でカタをとるとずれる。カッターナイフでカタをとる。
この職人気質が、芸への鍛錬と結びついていると、森栗は推測している。
昔のおわらには、準備が整ったことを知らせるウチコミがあり、これは義太夫、長唄のさわりを組み合わせたものである。曳山の三味線も、義太夫、長唄のさわりをくっつけたものであった。
とはいえ、
①、八尾のおわらは、旅人から仕入れた曲を一切入れない。おわら一点貼り、他の歌など入れ込まなくても良かった。
また、
②、他の民謡のように「がなる」ものではなく、タテの三味線の調子を聞きつつ、自分の体調を計りつつ、状況にあわせてすすめた。七七、七五だが、体調によって、四七、七五で歌うこともあった。(今のおわらは、息を無理してでも七七、七五)歌には表と裏があり、裏声を状況に合わせ使う。昔はそんな名人がたくさんおり、じっと家の中で聞いていると、▽町の△さんと、ちゃんとわかった。
三味線の方でも、歌を聞きながら前奏のチントンシャンだけでも、調子がとれた。森栗的理解では、逆に言うと、聞きわけながら唄い、聞き分けながら弾くから、他地方の民謡の混ざりようがないとも言える。下駄の音でもしようものなら蹴散らせれた。三味線を弾くときは草履の歩き方も音のしないように回しながら歩くと、別な名人から聞いた。町には名人がたくさんいるので、いいかげんな音は出せなかった。
聞き手、見手は、黙って町流しの後をついて行った。
Sさんは、おわらのある町に生まれて良かった思うが、おわらの時期に、町を避ける住民もいるという。
[鏡町の子、昼は宿題、夜おわら] [諏訪町町ながし] [名人が学生の前で三味線を][名人が大工仕事の箪笥のからくりを説明]
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