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2013年6月26日 (水)

井上ひさし「新釈遠野物語」の物語性(おはなし)

柳田國男は「遠野物語」冒頭で、
「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治42年の2月頃より始めて夜分折々訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実な人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じるままを書きたり。思ふに遠野郷には此類の物語猶数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」
と書きだす。
 井上ひさしは、
「これから何回かにわたって語られるおはなしはすべて、遠野近くの人、犬伏太吉老人から聞いたものである。昭和28年10月頃から、折々、犬伏老人の岩屋を訪ねて筆記したものである。犬伏老人は話し上手だが、ずいぶんインチキ臭いところがあり、ぼくもまた多少の誇大癖があるので、一字一句あてにならぬことばかりあると思われる。考えるに遠野の近くには、この手の物語がなお数百件あることだろう。ぼくとしてはあんまりそれらを聞きたくはないのであるが、山神山人のこの手のはなしは、平地人の腹の皮をすこしはよじらせる働きをするだろう」、
とパロディにしている。
参照:ぼくらの放浪記(http://blog.goo.ne.jp/tsurijin/e/55e13c2a4e8e6996ea3778a1fc6f8cf820130626tono
 そもそも、物語は一字一句変わらず残っているものではなく、語り手の語り方によって、少しづつお話が変わってきている。だから、あらすじがわかっていても、子どもたちは同じ話を何度も聞こうとするのである。柳田國男は、物語を資料として収集し、学問らしく仕立てたが、井上ひさしは、物語そのものの腹の皮をよじらせる面白さを描こうとしている。インチキ臭い、誇大癖、あてにならない物語の中にこそ、人生観・人間観が物語れているのではないか。井上ひさし作品の意味は、そこにある。
 さらに、井上作品は、リズムが面白い。「わかったようでわからない。わからないようでわからない」という表現だとか、一話一話の脈絡のない話を連載型で示し、結果として物語を編集している。
 加えて、井上は、感覚から目の動き、そして焦点を定めていく、ムービーのような描写法がうまい。「星なきみ空の天坊一座」では、
「背筋が凍りつくような視線を感じ、周囲をぐるっと見回した天坊の目が、斜め正面の銀行の角でピタリと止まった」
と書いている。
 

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