亀岡抜け道暴走の悲劇から一周年
一年前、亀岡市篠町の生活道路(山陰国道抜け道)で、通学途上の小学生・付添の親10名をはね、3名が死亡した事故があった。その後の状況がNHKで報じられた。
地域では、
①狭い道に歩道用のガードレールを置こうとしたが、クルマの通行(相互通行)に支障が出ると、1/3の反対があってできなかった。今も、水色の線を車道の内側に引いただけで、抜本的な解決はない。子供は、細い裏路地を縫うように歩いているという。
また
②抜け道への侵入を、通学時間だけでも右折禁止で制限しようとしたが、半数以上の反対がありできなかった。
行政が悪いのでも警察が悪いのでもない。
子どもたちを殺し、子どもを守ろうとした身ごもった若いお母さんを殺し、そして今なお、日常の危機を残し、子どもたちを狭い裏路地に閉じ込め、大人が自由にクルマを走らせている。
便利なクルマの利用とは、子どもたちの未来や、地域の安心を犠牲にしてまで、担保せねばならないのか。人生の目的とは、便利にクルマでコンビニに買い物に行けることであって、そのためには、ときどき子どもや母親が3人づつ殺され、日常、子どもたちがクルマを避けて小さくなって裏道を登校し、幼い子供が表に出れないことも、犠牲にされるべきなのか。
こんな通過交通に悩まされる生活道路が全国に7450箇所もあるという。
こんな国を成熟国家といえるだろうか。
私たちは、評論家のごとき、決められない政治を酷評しているが、その実、自分たちの地域の安全、未来も、よう決められないで、安易にクルマに頼っている。何をめざして生きているんや。いまだ、個人の判断も、ましてや地域の自治も、よう決断しないでいる。
日本は銃規制のできない米国を笑えない、クルマに関しては社会法的には無恥無法国家である。
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