幸福の良き海村と海岸土木~上五島・平戸、そして福島から
平戸の美しい浜に泊まった。 二つの砂浜湾の中央に砂嘴があり、淀姫様が祀られている島に続く。「我は海の子」とはこういう風景を言うのだ。海岸でアオサを採っている人にも出会った。
上五島の北端、遣唐使船の目印になったいう矢取岬に向かう途中に、冷水教会という小さな教会と村がある。立ち寄ると、子供たちが遊んでいた。こんな小さな過疎の町にも、子どもたちの笑い声が聞こえる。村が好きだ、海が好きだという。 上五島西側を北上すると大水教会がある。こんな奥地の過疎地にも美しい親子が教会に集まっていた。カソリックは子どもを大切にする。
しかし、実際の五島、平戸の海は、埋め立てられ岸壁となり、防波堤が這う。上五島の中心の中通島(佐世保、長崎、博多から船が来る)と若松島(長崎から船が来る)は橋で結ばれ、その西の漁生瀬島とは橋でつながっているが、さらに先、馬頭島、日島へは、海中防波堤でつながっている。コの字状の3つの島を二つの海中堤防でつなぎ、内海を港にしたのであろう。漁業だけでは食べていけなかったから、マリン土木に移った人から聞いた。湾奥には、ゴミが大量に溜まっていた(左奥の白い物)。 上五島で会った若い女性が云った。「故郷の海が好きです。町には住めません。でも、海岸が無くなったのが寂しいです」
平戸島の町で、倭寇王直やオランダ人の恰好をした3人の若者にあった。(平戸は倭寇の根拠地、鄭成功の生誕地、オランダ東インド会社の拠点であった。幕府の圧力で長崎出島に移るまでは大都市であった)。男の子は農業高校を出て整備士などをしているという。故郷が好きでこの観光の仕事をしているが、3月までだという。国の緊急雇用事業のようだ。賢い、熱い若者だった。こういう人材を中期的に活かせる方法はないものか。緊急雇用で使い捨てではもったいない。
NHKぐるっと海道3万キロのアーカイブスを深夜に見た。福島県浜通りは、文字通り砂浜で深い湾がない。ところが、一か所だけ、小さな島影に奇跡的に小さな湾があった。そこに6軒の夫婦が漁を営んでいた。浜の船よりは大きな船で沖合で漁をしてきた。船を浜に上げ下しするには、夫婦で息をあわせねばならない。つつましいが、人と人とが結びついた美しい風景があった。小良ケ浜という。まさに「オラが浜」である。 しかし、撮影後、1967年、原発交付金で富岡新港が建設され、補償金でより大きな船で沿岸漁業が興隆した。人々は競って船を新造し、海は乱獲で枯渇した。結局、若者に漁業を継ぐ者が減り、原発で働くようになり、家は原発作業員民宿を経営するようになる。そこに、今回の事故が襲い掛かったのである。
誰が、仮設住宅に避難している元小良ケ浜漁民を責められよう。しかし、これで良かったのか?あのまま漁業を続けても津波に呑まれたのか?難しい問題だ。
歩く巨人・宮本常一は、「島の人は都市と同様に努力しているのに貧しい。国が豊かになるということは、離島も含めて皆が豊かにならねばならない」という意味のことを発言して、離島調査会を発足させ、離島振興法に結びつけた。しかし、堤防を建設し、船が着き、大きな漁船を借金で買った結果が、浜を埋め立て、漁業を捨ててマリン土木に走り、若者が居なくなった今の漁村である。もし、今、宮本常一が生きていたら、この過疎の島を何と表現するであろうか。宮本の卒業した大阪府立第二師範のはるかな後輩、大教大の地理出身の私は、上五島、平戸を巡って、悩んでしまった。
その解決法は、思いつくことはあるが、政策にするまでは言わない。何とかせねばならない。
| 固定リンク
「まちなか再生とツーリズム」カテゴリの記事
- 上野武『大学発地域再生』清水弘文堂書房(2018.08.15)
- 小林重敬編著『最新 エリアマネジメント』(2018.04.04)
- 学びあいの場が育てる地域創生ー産官学民の協働実践(2018.03.30)
- 子ども食堂(2016.07.26)
- 四国落人山地の豊かさと予土急行国道33号線(2016.04.05)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント