八尾市におけるまちづくりラウンドテーブルを核とした住民主体の地区まちづくり
敬愛する久隆治さんの「八尾市のラウンドテーブル」の論文『日本建築学会大会学術講演梗概集(関東)』2001年9月、を読んだ。ラウンドおおさかをどう位置づけるのか、今後の展開を考えるために文献を探したら、久さんが出てきた。
小学校区に1つづつラウンドテーブルを設置し、課題対応型まちづくりでない、予防型まちづくりの対話の場の報告である。まちづくり協議会のような組織ではなく、多様な参加者の対等な対話の場だという。そのことで、行政の縦割りを超えた、初期的、主体的まちづくり目的としたラウンドテーブルを提案している。久さんが偉いのは、単なる議論・提案で終わらせず、それを実行してことである。
しかし、八尾ではラウンドテーブルをまちづくり構想策定を視野に入れている。おそらく、豊中市の芦田さんがすすめた市民主体のまちづくりを意図してのであろう。しかし、豊中市の市民主体のまちづくりがその後もそのまま展開できているかというと、仄聞する限り、なかなか難しい。果たして、まちづくり事業そのものをゴールにして良いのかどうか、多様な模索が行われていると私は見ている。私は、豊中市の模索は、今後の展開を考える上では、重要な熟成期間だと思っている。ただ、次の展開を模索する「勇気」と「知恵」にチト欠ける。
ラウンドおおさかの場合(参加者の一人としての観察では)、そもそも、まちづくりを標ぼうしない、ゴールに想定しない。大阪市域全体を対象とするラウンドおおさかでは、自由な対話の場としてのラウンドテーブル本来の機能、人材探し、人材活かし、個人の思いの醸成、多様な魅力ある24区のまち探しを目的とし、特定の「まちづくり」や合意形成を意図しない。
いや、延藤『まち再生の術語集』を参照すれば、「巻き込み」「参加する」し、「物語を協奏する行為」そのもの、まちを生きる語り合い、市政改革でクビになった協会の職員が、再び福祉系職員として大阪市内に戻り、やっぱりこの町だと思う姿や、社会貢献したいと信用金庫に勤めたが単なる銀行会社にすぎないと悩みラウンドで語る姿、流行らない酒屋を営む住民が店を地域に開放して生きがいを見つけそれをラウンドで共有する姿。ラウンドおおさかは、人々のこの姿(プロセス)が重要であり、決して、まちづくり行為に収斂するものでない。定例自己紹介にすぎない、でも思いやつぶやき、語りに耳を澄ますプロセスそのものが、大切である。
ラウンドの意図は、異なる目的生活仕事を持つ人々が、この町に共生する実感、すなわち結果としての郷土愛を模索するプロセスであり、それは人が町に生きる意味、人間の命そのものである。
そうしてこの語り合いの場は、結果として市民鍛錬の場となり、Resilieneceしなやかな市民を育てている。それらが、24区で、個々に花を開くような気が、私はしている。それが、市民活動であっても良いし、まちづくりになっても良い。まちづくりを意図しないという姿勢が、結果としてまちを育てるという、相矛盾するダブルバインドで良いのではないでしょうか。
大阪は、まちづくりに収斂することなく、ラウンドの良さを実践していきたい(と、参加者の一人として個人的に思っている)。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- COプレイス 立ち会議 働く(2019.03.03)
- 民俗学・内省のリスク(2018.04.16)
- 小林重敬編著『最新 エリアマネジメント』(2018.04.04)
- 公共圏と熟議民主主義,ハーバーマス(2017.12.20)
- 研究活用の政策学(2017.12.20)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント