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2012年7月16日 (月)

【授業報告:まち歩き】堤防を歩き水害を考える

)7月15日 元淀川左岸水防事務組合収入役・日本防災協会水防技術専門員・淀川資料館の柗永正光様にご案内をいただき、記憶に残った大切なお話を、日程変更のために参加できなかった学生さんに報告する。
■高槻市唐崎、柗永氏12歳の時の記憶…昭和28924日、折からの長雨で淀川の水位があがってきたとき、祖母が堤防を見てこいという。行くと、蛇、鼠など河川敷の動物が、種類ごとに堤防基部に集まっていた。
 夕方、再度見に行くと、淀川水位は堤防上から手の届くほどに上昇しており、動物たちも堤防上、水際にあがってきていた。が、動物たちは堤防を越えて村のほうに逃げようとはしなかった。彼らは、芥川破堤、村の洪水を予知していたのではないかと、後から気づいた。
 水位上昇時の堤防は水を含みドロドロで、足を踏み入れると抜けない。手をついて立ち上がり上流を見ると、芥川と淀川の合流点付近、過書の浜のあたりは堤防が蛇行するようにうねっていた。このことを祖母に伝えると、大切な学習道具を身元において備えるよういわれた。
 夜、ドーンと音がして、芥川、淀川沿いの唐崎村上流部で破堤があり、深夜、村に水が押し寄せた。水防団では、夜通しで西田サイデン堤防に土嚢を積み、これを防ごうとしたが難しかった。結果、25日破堤し摂津市一津屋まで、水没することとなった。淀川本線堤防が高くなった分、本線の水が芥川を逆流し破堤した。西田堤防の西北側には、大冠からイジを流して用水、排水にしている。
日本書紀・仁徳天皇十一年冬十月の条に、武蔵国の強頸(こわくび)は人柱になったのに、河内国の茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)は、ひさごを流したところ、沈まずに流れたので人柱を立てず堤を作ったとある。その堤が強頸絶間(こわくびたえま)と衫子絶間(ころものこたえま)で、衫子絶間がこの地域だといわれ、絶間とは決壊場所のこと。その絶間(たえま)が太間(たいま)になったというのが地名の由来とし、明治19年陸軍測量部地図と今の地図を新之助は重ねて掲載している。→太間の南に行く道と集落が古代の堤で、外側にイジ(井路)があり、遊水池が接続している。まさに、ひさご=ひょうたん→遊水池 である。各地の七夕伝説でも、洪水とひさごがセットで登場する(『説話伝説辞典』)。 Taima
引用 新之助「十三のいま昔を歩こう:太間と茨田堤の碑http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-614.html
 これは、古代の土木技術革新を示した伝承であり、「ひさごが流れる」とは、分水、分流含めた水制御を伴う堤防建設のことと、森栗は推測している。これをもう少し広域でみると、衫子絶間は茨田堤概略図(『寝屋川市史』)のAである。堤防裏排水路と茨田池(遊水池)がある。強頸は、頸(堤防上部)を強化した直流制御堤防Bでである。この場合、堤防に硬い芯=人柱 を入れ込む必要がある。P200806
 この断面を観察から推量すると図のようになる。
Img_0002 明治18年の淀川左岸切れ以降、長期間にわたって水没した河内の村々では、庄屋クラスが三段蔵のような出水対策をした蔵をつくることが流行した。大東市や東成区深江にも、そうした蔵が残り、「あの時、枚方で左岸を切りやがって…」という思いが、河内の村々には
伝えられている。これ以後、大橋房太郎のロビー活動によって、河川法ができ、淀川改修が近代治水でなされるようになった。20120707_019六連蔵(奥)の説明を受ける院生(右端は柗永氏)

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