遠山郷のバスわたる吊り橋
宮本常一が撮った昭和の情景(2010年3月26日)で紹介した、木の吊り橋をぎりぎりいっぱいでで渡るバスの写真 の場所に行きたくて、今、遠山郷和田にいる。
現地に行って吊り橋の写真を見てもらうと、「えっー、(写真を見て)ぞっとした。娘の頃(昭和30年前後)、和田から阿南の病院に行くとき、平岡駅(遠山口)まで乗った。轍がぎりぎりで、いつ谷底に落ちるか怖かった」という。
別な女性は、「これは木沢(和田のさらに奥の集落)の小道木橋。中学の時、毎日歩いたからわかる。通学にはバスに乗らなかった。バスが通るとギシギシ音がした」という。
柳田國男『信州随筆』に和田は山村として登場する。それを受けた後藤総一郎『遠山郷物語』によれば(括弧内は現地傾聴)、
M29-T11 王子製紙 1500人賃金労働者移入(村は4500人) という
(王子製紙以外も入り込んでいた。八重河内の奥、梶谷にもお茶屋があったという。お茶屋のお姉さんは、長いキセルで煙草を吸うような粋な人だった。梶谷は鎌倉権五郎景政の子孫で、仏像や鰐口も古いのがある。間部が残っており、昔、鉱山があったという。)かぶっちゃ(歌舞者)と呼ばれる酌婦も多かった。(パチンコが5軒、肉屋8軒、豆腐屋14軒あったという。合同倉庫では映画おこなわれ、登記所もあった。)
T12 水力発電所
S11 オート三輪を移入。清水トンネル内の岩を切り、橋板をワイヤーで持ち上げる苦労
S22 トヨタ22人乗りバスで路線バス
S35 飯田線遠山口駅―和田 10往復(全盛期)
しかし、上村・木沢と和田を結ぶバスでも、木沢の人は靴を脱いでバスの乗る、行き先を間違う、切符を買うという考えがなく銭を払わないこともあった などが記述されている。
現地には、古いコンクリート橋が残り、 乙姫バス停前には、対岸にクルマが渡るため、横板をわたし轍に縦板を敷いた鉄骨スラブの吊り橋があって、昭和34年の宮本常一の写真と同じ構造のものがあり驚いた。 ただし、宮本の撮影した小道木橋は木造スラブであり、当時はどこもそうだったが、なかでも小道木橋は狭かったようだ。ここは、流れが急で、橋脚を立てても岩盤に届かず、いつも流されるという。
近年、和田の対岸、よがわせと言って一夜で川になるといわれた場所に温泉・道の駅ができ、新しい施設が移り、外部の人も来るようになった。
しかし、平岡ー和田のバスは、一便を除いて乗り合いタクシーになっており、 飯田から矢幅トンネルを越えて(将来は高速道路になる)バスもやってきているが、皆の暮らしはクルマ中心である。過疎化も激しい。
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