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2012年2月 9日 (木)

覚悟とオオカミ少年、利他業と不瞋恚

五木寛之『下山の思想』を読んだ。右肩上がり:登山の発想を持つから苦しい。右肩下がりの現実を見据えて、下山を見据えようという。その「覚悟」が足らないと指摘する。(p85)覚悟がないから、オオカミ少年が出れば、皆がダーっとそれに従う。(p97)日本新党だといえば有頂天になり、小泉チルドレンに夢中になる。マスコミのせいではなくて、その実、一人一人の覚悟が足らない。覚悟がないのに、わかったような振りをして、一億評論家をやっている。
 言われてみると、私にも覚悟が無い。自分だけ何とか楽をしようとしている。適当な言葉で誤魔化している怠惰な毎日である。偉そうなことは言えないが、
 空海は「それ仏法は遥かに非ず。心中にして即ち近し。真如他に非ず。身を棄てて何イズクにか求めん」(p22『生き方が変わる! 空海 黄金の言葉』)という。自殺者3万人、親子殺しの頻発、予算がない、収入が減少するこの下山or末法をどう生きるか、答えは細川や小泉、今なら橋下にあるのではない。自己の中の仏を見るしかないと思う。
 「一切衆生を観ること己身のごとし、故に敢えて前人を瞋恚せず」(p86)。人は、右肩上がりだと貪る。右肩下がりになると怒りや憎しみが出る(瞋恚)。そして愚痴が出る。愚痴とは己の無知の表明である。私たちは、老いや下山の現実をあきらめ=明かにして、自己の生き方を探すしかない。その覚悟が無い。
 「菩薩の用心は皆、慈悲を以って本モトイとし、利他を以って先とす」(p39)。世を嘆き、リーダーを評する内閣支持率など、愚痴の総体にしかすぎない。一億無知社会になっている。個々が世のため他者のため(利他)何をするか=菩薩業。それが求められている。
 世を明らかにし、個々の菩薩業をどのように現場でおこしていくか。これが、協働のまちづくり である。
 大阪市では、協働のまちづくり指針や講師派遣制度など、仏像を作って来たが、魂をこめるには至っていない。
月陰の至らぬ郷は無けれども、眺がむる人の心にぞすむ(法然)
この「教導のまちづくり」が必要かもしれない。

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