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2012年2月12日 (日)

司馬遼太郎『空海の風景』

事実としてではなく、司馬の描く空海像に共感してメモする。

司馬遼太郎全集 39

 最澄が『理趣経』借用を申し出たとき、空海は大嫌いな『論語』を引用し「道聴塗説」と非難して拒絶している(p337-340「空海の風景」『司馬遼太郎全集』第39巻)。
生半可な知識で道を説くものではないと空海は怒っている。私も、自分の身辺・経験・見たことに基づき、自分が思うことを、言葉(メモ)にしておくのみにとどめたい。
 空海は密教を文字のみによって理解することを「越三昧耶」として甚だ憎む。
なかでも『理趣経』は
妙適(男女交媾の恍惚)清浄の句、是菩薩の位なり
つづけて、欲箭も触も愛縛も本質は菩薩だといい(p43)、人間存在の一切を菩薩として肯定する。これは、自己を通じて、利他を考える究極であろう。だから『理趣経』は真言常用経典なのだ(p335)。
 その理解は、自然としての自己の口と身と意(三業)を通して(p338)、宇宙(他者=社会)の三密と一体化させてすすめる。人々の言葉のなかに理趣を聞き、人々の身体のなかに仏性を見、宇宙の成り立ち意図(理趣)を感得する の三種なのか。(推測メモ)
 空海は、建築、都市計画、土木の技術にも通じているが、そもそも密教はそういうものであった。
 空海は東大寺別当として南円堂を設計し、不空羂索観世音を中心とした密教現是利益の世界を、藤原北家に提供している。
 玄奘三蔵も、後に空海が起居する西明寺を設計している。それはインドの祇園精舎をモデルとして兜卒天の弥勒菩薩の宮殿を地上に再現しようとしたものである。空海も、兜卒天の弥勒菩薩の宮殿、加えて長安を模して山上に高野山を設計建設した(p366)。その最奥に奥ノ院を置き、自らを生けるがごとく入定させて一大アミューズメントとした。晩期の穀断ちは、有機物を減らしてミイラ仏を狙ったというような直接的なものではなく、命が途絶しようとする自然と、食べるという生きようとする命が相克する醜さを避け(p387)、自らの入定アミューズメント=普遍宗教都市高野山設計の完成をめざしたというほうが妥当である。都市計画とは、かくも宗教的哲学的行為であり、そうでない線引き・用途地域設定・事業計算だけは、恥ずべきである。
 満濃池の修築では、空海は勅命を出させて別当としてでかけ、官人を動かし(政治)、「その気にさせた」(協働)。その上で、アーチ型堰堤を持ち込み(土木工学=金剛界)、水利と洪水の矛盾、投資費用と負担、利益還元(胎蔵界)をわかりやすく技術者にはそれ用に、庶民にはそれように、そして豪族には豪族用に説いたのではないか(p12-13を参考)。そもそも、善無畏がもたらした大日経系密教(胎蔵)をゆずられ、かつ金剛頂経を伝えた金剛智・不空の伝法者であった第7代恵果(p245)の後継者が、空海であった。空海の、両部不二(智と理の不可分)の実践こそが、空海土木計画の骨頂ではないだろうか。
 それら全体を感得する統合手法=阿字観、月輪観瞑想法で心を落ち着け、目配り・心くばり・時をみる目・したたかな三枚舌 は、空海が室戸岬で感得したという虚空蔵求聞持法の一面、または前提なのかと推測している。それは、ありとあらゆる現実を認める、取捨選択しない、抽象化してごまかさないという態度から出発すると思う。
 「三枚舌」などというと、真面目な僧職から叱られそうだが、崇敬・侮蔑二分法でなく、統合的に理解をしてほしい。

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