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2011年11月 9日 (水)

記憶と都市と行動:中心市街地や公共交通はなぜ必要か?(加筆再掲)自転車なぜ楽しいのか?

「中心市街地はなぜ崩壊させてはいけないのか」「税金投入で守らねばならないのか」について、
 ①中心地高齢者等マイノリティの移動確保(交通権)
 ②中心市街地におけるクルマ以外の複数の移動手段確保は都市の幸福(公共)
 ③中心市街地に来るビジターの移動確保、利便
を理由にあげる考えがある。都市は集積の結果である。その合理的利益として、多様な人の生活を複数で担保する意味から公共交通が必要という論理はありえる。
 しかし、「クルマで自由に移動すれば良い。クルマの社会的費用は法で担保されており、道路財源を含めて、これ以上、中心市街地や公共交通に限られた財源を使いたくない」という人と、公共的利益論は、なかなか議論が交わらない。JAFは自動車特定財源一般財源化反対署名をしていた。高速道路無料化が国民世論の賛同を得やすいと考える政党はあるが、公共交通無料化が国民世論の支持を得られると考える政党は今のところ存在しない。フランスよりも日本のガソリン税は安いが、ガソリン税減税を主張して支持率を伸ばした政党、自動車重量税を軽減せよという財界はあっても、公共交通を半額にせよという声は出ない。これが日本の現状なのだ。こうしたなか、自動車の社会的費用という正論を主張をしても、なかなか国政での合意、地域での合意は至難を極める。説得が難しい。どうすれば良いか、私も常に悩んでいる。
 某経済学者は幼少の頃、水戸に住んでおり、茨城交通市内線の廃車が横たわっているのを見た記憶があるという。日本銀行に進み日本経済を統計的に支える仕事をしながら、一方でLRTにのめり込み、挙句は出版、ついには交通経済学教員として大学に赴任した。彼の行動は、経済的合理性か社会的使命感かはともかく、どうも合理性ではなく「幼少の喪失記憶」というリビドーに突き動かされたものではないか。
 ▼人間の行動選択 合理性<記憶
 経験記憶には、愛と飢えがある。愛は強化欲求を促す。飢えは回復欲求を導き創造行動に突き動かされる。そうした強化や創造行動は、抽象よりも、具体的なモノに固執する形で表出する。合理性ではなくフェッティシュにモノが要求される。例えば、コミュニケーションのある町よりも、古い街並みが好まれる。動きが見えにくいバスよりも、鉄道やLRTが好まれる。バス趣味は少数派で鉄チャンは多数派なのはこのことに由来する。
 都市の記憶には、
(A)都市の自然的景観
(B)都市の長い歴史を経た文化的景観
(C)個人的な都市の場所に関する生活景観
がある。例えるなら、山と海に挟まれた神戸(A)、国際都市としての雰囲気(B)、貴方と歩いたトアロード(C)、ということになり、愛着心、帰属意識(わが町)を生む。これを個人ではなく、都市全体にあてはめ都市政策をすすめていくことになる。
 記憶には「将来に必要な情報をその時まで保持する」未来記憶の部分がある。長期記憶、意味記憶に分類される都市の記憶は、都市の未来を考える資産なのである。単なる過去の事実である「記録」とは違う。
 いわば、記憶は個人の生き方、生きがいと関わっており、集団としては都市の目標、都市マスタープランと関わっている。
 人は、消費のための合理性のみで行動するのではない。
 人は、消費のための惰性としての個人行動と、生きるための記憶との葛藤で動いている。クルマとコンビニの生活が楽だと思って暮らしつつ、亡くなったお母さんのような優しい女性に出会えば、うっかり結婚行動に出るのである。都市生活では、クルマに依存した個人消費に浸りきっていたが、震災で町が消失すれば、何とも思わなかった町がいとおしく思え、歩きふれあうまちづくり、クルマに頼りすぎないまちづくりに奮走する私であった。
 ▼喪失感・危機感のあるときしか、創造行動をとらない
 中心市街地が大切なのは、それがみんなの文化景観・生活景観であり、その町に生きる意味につながるからではないか。
 誇りを持ち、愛着心を持つ町は、経済的合理性以上の都市経営の目標ではなかろうか。

【学生質問】ショッピングセンター(SC)に毎日来ている子供は、そのSCが良い記憶になる。多くの人が来るSCにも記憶はある。中心市街地が良いというのは先生の郷愁ではないか。
《答え》郷愁の喪失欲求がこんな理屈を言わしているかもしれない。が、個人の人生と、個人の未生以前の多くの時間と思いを織り込んだ中心市街地の景観(文化記憶)は、共有する移動手段(公共交通)を交えたコミュニケーションは、得がたい「生活記憶」である。人間は消費(consumpt=食い散らかす)機能ではなく、支えあう、関わりあうなかで生きる主体なのである。都市は生きる人間の関わりあう場である。消費の装置としてのSCには、公共施設を置こうが、川を作ろうが、酒場の雰囲気を作ろうが、すべては模擬となってしまい、生ける実感は得られない。
【学生質問】自転車はクルマのような個別消費でしょうか、それとも公共交通のような記憶をわかちあうような、生きる主体なのでしょうか?
《答え》自転車は、クルマと違い、自然景観及び自然そのものと対話します。また、立ち止まることも容易で、他者の文化景観・生活景観とも交流し、自己の生活景観や都市文化にもなりえます。が、その数や立ち止まり方が難しい。放置自転車を無くすとか、都市景観にマッチした自転車デザイン、駐輪場デザインは、自転車を活かす殺すのポイントかもしれません。安物の自転車が放置されている、歩道を走り抜ける現状は、タバコを買いにクルマで出て渋滞を作ってしまったようなもんで、惰性消費であり、自転車の機能を殺すものです。記憶になる自転車、記憶とふれあう自転車であって欲しい。

実は、皆が愛着を持ち誇りを持ち多様な社会起業や市民活動が起きる都市にこそ、ユーザーイノベーション・知的産業などの先端企業立地が促され、居住や資産集積が集まる。
京都のユーザーイノベーション知的企業は京都を離れない。任天堂、村田、島津、オムロン、ワコール、タキイ、京セラ…。大阪から企業本社が離れるのはなぜなのか、大阪は考えないといけないのではないか。
 大阪に無いのは、衰退している壊滅しつつあるという危機意識。神戸にあるのは震災も忘れてしまう記憶喪失。京都にあるのは、何でも「京○○」と言い張る、強い記憶

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