ブリコラージュ:状況、体力、能力をかき集め、何とかする力
フランスの文化人類学者・クロード・レヴィ=ストロースは、著書 『野生の思考』(1962年)などで、世界各地に見られる、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つ道具を作ることを紹介し、「ブリコラージュ」と呼んだ。彼は人類が古くから持っていた知のあり方、「野生の思考」をブリコラージュによるものづくりに例え、これを近代以降のエンジニアリングの思考、「栽培された思考」と対比させ、ブリコラージュを近代社会にも適用されている普遍的な知のあり方と考えた。⇒ジャック・デリダによれば、純粋のエンジニアリングなどない。ブリコラージュを仮想的に積み重ねたエンジニアリング、逆に仮説エンジニアリングの応用としてのブリコラージュが現実である。
エンジニアリングのみを真実と信じ現場に人に学ばないから、人の気の知れない、アホーな需要予測、意味不明の補助金政策となる。
奇妙な授業がある。小グループに別れお遍路に行く。無計画で、各々食事、暗くなるまで歩かなければならなくなる者もいう。山岳修行の路をとるものもいれば、体力の限界で、バス鉄道を利用し、何とか誤魔化しながらついて来る者もいる。大集団になって歩くこともある。
それらの経験を小さな宿で語り合い、定員10人の宿に27人が押しかけ、ブリコラージュで速攻風呂、協力朝食で何とかやりすごした。
9月に発表会があり、これに出席するだけで、2単位。
ところが、学生が集まりたい、このつながりを再確認したいと言い出したので、授業最終日(キャンパス連絡バスが走る最終日)の本日、集まるとだけ言っていた。都合で、夕方の16:30-19:30に適当に来いと言ったら、ほとんど全員が来るようだ。これと言って、することは無い。お菓子と飲み物でも用意して、近況を語り合う、私の石鎚山経験を話す程度。
大学は学生に何を与えられるか。本当はエンジニアリングの知識ではなくて、その裏にある無数のブリコラージュの機会かもしれない。お遍路授業は、その塊なのかもしれない。
単なる集まりだが、一応授業である。今日の授業をどうやりすごそうか?私のmorikuriやり繰り器用仕事:ブリコラージュが求められている。
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