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2011年8月10日 (水)

今、問う。生活学とは何か~東日本大震災を前にして~

個人的な思いで恐縮ですが、3・11以降、神戸の震災をきっかけに、都市・生活を考えてきたつもりの私には、心にわだかまりが常に残る。
もっと原子力について考えておくべきではなかったか。
もっと津波防災のことを考えておくべきではなかったか。
真剣に地域生活を考えてきただろうか。自分の小さな体験の延長に、姑息な政策を考え、もっともらしい教育研究をして、いかにも生活実態からと嘘をついてきたのではないか。
そんな思いにさいなまれている。そして、未だに東北に行けない。
「神戸の体験を伝える」などと、ボランティア、調査に出かける気になれない。ただただ、唖然として半年を経過しようとしている。
日本の大転換点におけるこの煩悶は、津波で生き残った被災者だけではなく、原発を受け入れ「平和の原子力で明るい町」を推進してきた福島県の避難者だけではなく、ひょっとすると多くの日本に住む者が共通に持っているsurvival guilty かもしれない。
節電意識も大きく変わった(関西は5%)。前年比17%もの節電が達成できたという。今まで、やろう⇔できない、お願いします⇔無理、だった。これまでの省エネ活動はいったい何だったのか。ローソンが一気にIED直管球に変えたのには驚いた。3・11前は、誰も本気で生活を変えず、決断せず、エコ川柳でも作って、誤魔化してきたのではないか。
  戦後50年、バブル崩壊、高齢化社会の入り口の阪神大震災は、人々にふれあいの大切さを伝えたと思う。GDPが中国に追い抜かれ、リチウム電池生産でサンヨーがサムソンに追い抜かれた、人口減がジワッと始まった2011年の東日本大震災は、残された資源のわかちあい、相互のささえあいを啓示しているのかもしれない。
生活学も、時代の変化のなかで再構築をしなければと言いつつ、本当に生活を見つめてきたか。個別の建築学、モノ・ファッション分析、栄養学を突破してきたか。ポストモダンを追求し、エンジニアリングを乗り越えたか。
この大きな喪失感の前で、役割を果たせず、または形ばかりの特別調査なるものを覗き見た大学・土木系学会関係者の一人としては、すべての近代知:エンジニアリングの無力さ=survival guiltyを感じるのは私だけであろうか。
この期に及んで、再度、生活学とは何か、問いたい。必ずしも震災の個別事象にふれる必要はないが、震災は通奏低音として、ときに主旋律として立ち現れるであろう。
 今、この世界・社会・生活を我々はどう捉えるのか、大先輩:進士五十八さん(元都市計画学会・生活学会会長、前東京農業大学学長)・小川信子さん(元生活学会会長、国際女性建築家会議日本支部会長)をお迎えし、若い学生さんと、そして被災地の暮らしを見つめてきたジャーナリストに、お話しを伺いたいと思っています。(交渉中)
 ■日時 2011年10月8日13:30開始
 ■於:早稲田大学理工学部
ぜひとも、ご参集ください。

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