水防堤を作る市民、率先避難市民《大阪市港区》
大阪市港区の防災フォーラムに2日行き、毎回、平松市長の思いを伺った。
集会までに時間があったので、まちを観察しようと、大阪駅発天保山行のバスに1時間弱、乗った。天保山は、大阪の港や川を埋める砂を、市民が祭礼のようにして「砂持ち」して積み上げた“市民協働人工山”(天保時代[1830-1843〕だから天保山)。
そのバス停を降りて、写真のような石碑が目に入った。
「港区水防記録」。
昭和20年9月18日の枕崎台風では、空襲で焦土、人口26万人が3千人となった町が、54日間、泥海につかった。泣き面に蜂状況。が、この3千人が物資を捜し求め、300人/日[要は、港区住民総出]で防潮堤締切工事をした。こうして、昭和21年7月31日、港区防潮水防分団が創設され、翌年から港区全面盛土工事が行われた。未確認だが、減歩条件は厳しく、私有地の半分を提供した住民も多かった。
ところが、昭和25年9月3日、ジェーン台風で流船、流木で被害が大きき、12日間水没した。この後、高潮対策は拡充したが、昭和36年9月16日の第二室戸台風では、水防団員による国鉄市岡鉄橋の水門水防扉閉、土俵積工により防いだ。一部、浸水もあったが、ポンプを動かし、10時間の浸水にとどめた。
その後、大阪府による安治川、尻無川防潮水門、堤防6.6m嵩上げがなされた。
しかし、沿岸荷役のため240箇所の鉄扉があり、低い所は2.6mしかなく、課題は大きい。
昨日、足の悪いつれあいをかかえる高齢者の方が、「私はどこに逃げれば良いのか」という質問があった。区では緊急避難所指定を急ぐが、いざというとき、マンションに上げてくれるような人間関係、寄り添ってくれる地域の支えあいマンパワー、それを作らねばならない。区も警察も消防も、緊急には「何もできない」。事後は、消火や治安、避難所対策をするが、津波が来るときは、訓練どおり、地域での人間関係で、率先避難しかない。
今ないのは、戦後間もない頃のような、自ら防潮水門を作った市民の熱意と、自ら水門を護った市民の覚悟ではないか。逃げるのは、自分だ。地域の助け合いだ。
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