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2011年6月 8日 (水)

自動車至上主義がゆらぎ、自転車が議論される今、『自動車の社会的費用』を読む

自動車は、貧困を断ち切る豊かな生活の象徴であった(p26)。
人々が自動車に多くの所得を割き、公共交通が陳腐化し、実質的所得分配の不平等性(p28)が増加する。
消費の自己目的化(マイ・カー)ex.人命よりクルマの傷を気にする(p32)
こんな社会でええんかと宇沢はヒステリックになる。

米国では1973年、新交通法によりハイウェー・トラスト・ファンドから公共交通投資が可能(p44)
(米国では自動車の外部不経済を補おうとした)となった。
  =しかし我が国では、総合組立国策産業である自動車産業を育てるため、公共交通よりも、高速道路延長に自動車特定財源が振り向けられた。
■自動車の外部不経済(p89-98)
 ①交通事故
 ②公害
 ③道路での子どもの遊び、自由通行の権利侵害
 ④自然破壊
 ⑤都市景観破壊
 ⑥渋滞による費用
は、道路という限られた社会財に対する、個人選択自由とその結果としての混雑(p126-128)、いわば「コモンズの悲劇」からきている。consumerは、社会的共通資本を市民的自由でconsume(食い潰し)、①~⑥を発生させた。

しかしながら、2011年現在は
⇒自動車のみに価値観を置かない時代、
  自動車を買えない不安定収入者の増加、
  自動車を運転しずらい高齢者増加、
  エネルギーバランスの悪い自動車がカッコ悪く見える
のなかで、大きな転換点をむかえている。

自動車財源を使って、自転車道を整備するというのはそういう意味であり、その時代的必然を、土木研究者はもっと深読みする必要があったのではないか。

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