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2011年6月12日 (日)

田中重好『地域から生まれる公共性ー公共性と共同性の交点』

宇沢『自動車の社会的費用』が名著だとしても、エキセントリックな自動車嫌悪は、自動車に絶対の信頼を置く人々を、自動車愛着・自転車嫌悪に追い込むだけである。しかも、1968年運輸省発表の自動車1台あたりの社会的費用が7万円(p88)に対して、自動車工業会が0.66万円(p94)、公害を計上した野村総合研究所の試算が約18万円となっている。見方(条件設定)によってここまで異なれば、計算することさえ無意味であり、経済学の粋を越えている。そもそも、ホフマン方式で、推定所得と低減率6%で生涯賃金を以って社会的価値を推定するなら、70歳の高齢者が交通事故で死んでも、社会的費用には計上されない(p80-82)という矛盾に撞着する。

そこで社会学。
 通常、減災や福祉のまちづくりなどでは、公助、共助、自助がいわれる。また、官から民、官尊民卑を打倒せよと叫んでいた新自由主義は、近代に国家が取り上げた公を、いとも簡単に1円で特定の私に払い下げた。ホリエモンや村上ファンドのような公益を私益に分解する私尊公卑は、弱者に自立自助を強いる結果に終わった(ドーア『「公」を「私」すべからず』vⅰ-x、ⅰx)。新自由主義は、官=公を所与として扱う点では、公助共助自助論と同様の間違い:「公=官」を侵している。

一方で、古い市民運動では、閉鎖的な共同性は打倒されるべきものであり、その先に市民的公共が制度化されると考えられてきた。田中重好『地域から生まれる公共性』は、そうではなくて、大きな公共が成り立ちにくい現代では、地域の共同性の発露から生み出される小さな公共が集まり、大きな公共(新しい公共だろうか?)になっていく時期ではないかと指摘している(p161-177)。
 しかし、私の経験から言えば、いささか理念的、リアリティに欠ける。

確かに、山口市交通まちづくりのように、地域の共同性から起きる小さな公共が、コミュニティタクシーの自主運営を支えている。それらを支援し、みんなが安心して移動できる交通市民計画=大きな公共に展開している。そういう側面もある。しかし、70年代の新興住宅地住吉台では、共同性を拒否し、あるいは失った人々が個々にクルマ利用で住み着いた。そのニュータウンが限界に達し、阪神大震災で被災高齢者が住み着き、問題事象がおきて初めて、住民協働くるくるバスという小さな公共がスルーアップされた。

淡路島でクルマを所有している人も含め全世帯が1万円/年 を出してコミバスを運営している長沢も、震災で混乱する海辺の海村をみて、団結して村の高齢者移動を皆で支えようとした。
 共同性のなかから、自ずと公共が生まれるのではなく、一定の絶望・限界から人々の「覚悟」が生まれ、そこから公共が生まれるのではないか。そうした地域の公共が重なって、大きな(法的、国家的)な公共になっていくのではないか。

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