「寺田寅彦随筆集」第5巻、岩波文庫、1993年
文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度をなすという事実である。
人類がまだ草昧(そうまい)の時代を脱しなかったころ、がんじょうな岩山の洞窟の中に住まっていたとすれば、たいていの地震や暴風でも平気であったろうし、これらの天変によって破壊さるべきなんらの造営物をも持ち合わせなかったのである。もう少し文化が進んで小屋を作るようになっても、テントか掘っ立て小屋のようなものであって見れば、地震にはかえって絶対安全であり、またたとえ風に吹き飛ばされてしまっても復旧ははなはだ容易である。とにかくこういう時代には、人間は極端に自然に従順であって、自然に逆らうような大それた企ては何もしなかったからよかったのである。
文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているのはたれあろう文明人そのものなのである。
もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合の進化し、その内部構造の分化が著しく進展してきたために、その有機系のある部分の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が多くなり、時には一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになった(p58-59「天災と国防」)
(電気、水道、交通網などの有機体でできた社会は、地震で簡単に切断し大混乱になる。)送電線にしても工学者の計算によって相当な風圧を考慮し若干の安全係数をかけて設計しているはずであるが、変化のはげしい風圧を静力学的に考え、しかもロビンソン風速計で測った平均風速だけを目安にして勘定したりするようなアカデミックな方法で作ったものでは、弛張の激しい風の息の偽周期的衝撃に堪えられないのはむしろ当然のことであろう(p60)
昔の人間は過去の経験を大切に保存し※蓄積してその教えに頼(って集落を安全な所に作るのに)田んぼの中に発展した新開地はめちゃめちゃに破壊されている(p61)
大津波が来ると一息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまっている場所でも繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の闘争に夢中になる(p198「災難雑考」)(それを止めるのは、災害を止めるよりも難しい)
(つまり自然災害は)一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので、従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるものだという考え(を持つが故に、災害が大きくなる)(p199)
(しかし、こうした状況だからこそ)災難の進化論的意義(がある。)(p199)
却下の大地は一方においては深き慈愛をもってわれわれを保育する「母なる土地」であると同時に、またしばしば刑罰の鞭をふるってわれわれのとかく遊惰に流れやすい心を引き緊める「厳父」としての役割をも勤めるのである。厳父の厳と慈母の慈との配合よろしきを得た国がらにのみ人間の最高文化が発達する見込みがある(p230)
こうして発達した西欧科学の成果を、なんの骨折りもなくそっくり継承した日本人が、もしも日本の自然の特異性を深く認識した上でこの利器を適当に利用することを学び、そうしてただでさえ豊富な天恵をいっそう有利に享有すると同時にわが国に特異な天変地異の災禍を軽減し回避するように努力すれば、おそらく世界中でわが国ほど都合よくできてる国はまれであろうと思われるのである。しかるに現代の日本ではただ天恵の享楽にのみ夢中になって天災の回避のほうを全然忘れているように見えるのはまことに惜しむべきことと思われる(p238)。
※「寺田寅彦随筆集」第2巻「怪異考」の
自分の郷里高知付近で知られている「孕(はらみ)のジャン」と称するものである。孕は地名で、高知の海岸に並行する山脈が浦戸湾に中断されたその両側の突端の地とその海峡とをこめた名前である。孕のジャンはだれも正体を見たものはなく、夜半にジャーンと鳴り響いて海上を通り過ぎるが、これが通り過ぎると魚が逃げてその夜は漁にならないという古い文献を紹介し、『私は幼時近所の老人からたびたびこれと同様な話を聞かされた。そしてもし記憶の誤りでなければ、このジャンの音響とともに「水面にさざ波が立つ」という事が上記の記載に付加されていた。
などが、災害の民俗記憶の一旦である。こうした伝承の意味を考えてみることの必要性を寅彦は指摘している。少なくとも、そうした謙虚な態度が必要だ
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