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2010年11月 2日 (火)

夏遍路で会った人々

9月28日「本当にお大師様に会う話」は印象的な話。それ以外にも、夏の通し遍路では楽しい出会いや問わず語りの記憶が残っている。

■60番横峰の手前、三芳町では夕方開いている食堂を見つけることができず、スパー入口の椅子で賞味期限間際の半額の弁当を食べていた。哀れに思ったお婆さんが1000円札をお接待。遠慮したが聞き入れられず。新居浜で守護霊の立つ場所を発見し、地元の兵庫守を信仰しているとか。貴方も困ったら行きなさいと「よく見てくれる先生」の電話番号を教えられた。Img_0263
■64番前神寺を出て新居浜の善根宿を朝4時に出て旧道を歩き続けたが、7時を過ぎても朝食を食べれる店がない。トマトを洗っていたおばあさんにトマトをわけてもらった。毎朝、採れた野菜を近所に配っているという。
■さらに歩いて国道の関川峠を登っていると、近づく小型車がある。「こんな所で停まったら危ない。お接待は無用」と言おうとしたら、「アルツハイマーの主人が家出した。この先の親類の家に向かっているかもしれない。見つけたら電話して欲しい。このお尋ねチラシを、どこかの駅かコンビニに掲示するよう頼む」と言われ、土居駅に掲示した。結局、朝食はとれなかった。
■88番札所手前、前山(香川県さぬき市)から女体山越は何度も岩を登り、厳しかった。一人歩きの中年女性から「何かが山中でついてくる。歩き出すと音がする。怖いので一緒に歩いてくれ」といわれる。その昔、山里を荒らす猿を退治して村人の難儀を救っ た猟師の太郎兵衛の伝説を紹介。送り猿だと伝えた。
■88番から阿讃山脈を越えて10番切幡寺に向かうが到着できず野宿する。川でシャツの汗を流し、東屋で干して寝ていると、「わしゃ農民じゃ」という人と会話。「(私が講演に行く)窪川は養豚で有名、わしも昔は畜産をしたが、結局息子は勤め人となった。農水省の補助事業は、どれも持続経営にならなかった。畜産排泄物を使うバイオマスの大きな施設も、役立たず遊んでいる」という。孫を使いにして「お接待じゃ」とパンをもらう。本日の夕食、翌朝の朝食となる。自動販売機のジュースでしのぐ。
■3番金泉寺の奥様と納経所で御子娘の進路で議論。保育専攻で大阪教育大学に行くという。鳴門教育にせず、一旦外に出すのは良い。しかし、大阪大学大学院で勉強して、故郷の保育施策の中心になってもらっては?と話したが…。
■1番霊山寺本堂横の納経所では通しの歩きとわかると、特別に歓待してくれた。休憩後、板東駅手前で、クルマが追いかけてきて、ポカリスウェットをくれ、お遍路さんと記念写真を撮ろうという。あまりの暑さと疲労で、杖を投げ捨て座り込んで、記念写真。昨年、家族で遍路に出かけたという。
■大阪の高校校長が亡くなり、婦人が供養のため遍路に来て景色が気に入り、徳島県鴨島の11番藤井寺札所近くに住んでいる。軽乗用車で楽しく暮らしきたが、先日大きな事故をおこしたのに、怪我がなかった。以後、遍路道の掃除をしているという。
■12番焼山寺を降りた小学校廃校近くに、すだちの館がある。夫は、阿南の木材買い付け業者で、妻は21番札所太竜寺下の遍路民宿の娘。夫の知人の導きで善根宿をはじめる。旧教員住宅を利用して安く宿を提供し、記念写真を撮るのを楽しみにしている。場所がら、野宿する人もいるが、女性は危ないので、無料でも泊めてしまうこともあるようだ。File0002
■19番立江寺近くの鮒の里は、民宿と善根宿とを併設している。実家は旧ルートにある遍路宿であり、長じて大工として成功し、自前で宿を建てた。
■23番から24番の間、太平洋に面した高知の東端に仏海庵がある。昔、淀が磯で遭難する遍路を助け供養した木食上人が入定した宝篋印塔が祀られている。近年まで僧尼が住んでおり、若い遍路が一夜の世話になっていた。当時の面影を残したまま、地元の方が美しく整備している。
■室戸市吉良川の町並みは、木材流通で栄え、まちなみ保存がすすめられている。そのなかに昭和初期の様式を残した理容店がある。映画「私は貝になりたい」で、極東軍事裁判C級戦犯で死刑に処せられた元理容師の店のモデルになった店である。実際は足摺岬ともいうが、当事者と村内部には複雑な思いがあり、訪問者は歓迎されなかった。いろいろわかったことがあるが、書けない。
■高知の土建会社が墓地造成時、寺を建設したが、事業中止。その施設の一部をレストラン、作業員宿舎を民宿にして、整体師が管理経営している。遍路が安く泊まっているが、歩きで痛いところがあるのは、身体部位に対する感謝が足らんと説教する。レストラン等の従事は、整体の客である高齢者を必要に応じて雇っている。
■浦戸湾フェリーは40分ごとである。遅れそうになる遍路をみつけると、地元のクルマが「お遍路さん、急いで」と言って、乗り場に先回りして船を止めてくれていた。
■国民宿舎土佐の経営を引き受けたのは、遍路道に住んでいた元空港ビル職員。社会人類学に関心があり、お遍路さんドミトリーを運営している。善根宿も手作りしている。また高齢者の滞在型住居も建設中である。
■若い遍路がビニールハウスの横でスイカを接待されていた。中年は職業遍路かもしれず、しつこく接待を強要されては怖いので、接待がない。若い遍路にはアブがたかるが、私にはコバエがたかる。俺は生ごみか?
 そういえば、善根宿すだち館のケンチャン(犬)が私についてきて4km先の寄居集落まで来てしまって困り引取りに来てもらうよう電話をかけた。ところが、オフのゴミ収集作業員が近づくと、ついていく。必死で押しとどめ、停留所にあった自転車チューブでくくりつけ、飼い主の到着を待った。
■今年は暑く、四万十市真念庵近くの遍路道(足摺岬からの戻り)で、死亡した遍路がいた。その先、高知県三原村では、ふらふら歩いている青年がいたので某農家が保護し、一泊させた。所持金は1000円しかなかった。TVで、「四国に行ったら金がなくとも誰かが接待してくれる」と某漫才師が言っていたので、悩み事があったので来たと言う。休養させ帰りのお金を持たせて返した。この農家は、どぶろく特区で収益があったが、農業だけでは苦しく、息子に継がすことができないという。昼食を食べていなかったので、農家レストランののぼりを見て入ったが非営業中だった。が、自家消費のカレーをよばれた。お礼にどぶろく購入。
■四万十川の支流、10km奥に民泊し歩いて国道に出ようとすると歩いている人がいる。40歳代の女性。大変ですねと言うと、昔に比べれば歩きやすいという。また、高知県宿毛から峠道を越えて愛媛県の南端、一本松のバス停でも、里帰りした女性が言う。「昔は東京から松山が3時間、松山から宇和島までが3時間、宇和島から一本松までが3時間だった。ハワイに行くほうが近いと笑っていた。それに比べれば、道も良くなって楽なもの」と言う。
■ハワイで格闘技同情を経営している日系青年と、十五夜橋別格札所通夜堂で会う。全身刺青、大和魂と書いてある。別格や奥ノ院も全部歩いて廻っているという。もっとも、岩屋寺で、彼がバスから降りてきて挨拶したのには驚いた。「バスも乗るんや!」
■大瀬(内子町)はかつでは筏流で栄えた集落だが、その町並みを地元の設計事務所が保全しようとしている。大江健三郎の故郷だ。内子や卯之町の町並み保全へ、ここの技術が進出している。
■道後を6時に出て、早朝開店スーパーの前を通り過ぎると「お遍路さん」と呼び止められ朝っぱらからジュースをお接待。それに気をよくしていると、別のお婆さんが私の進路のまん前に立ちふさがり「おえろうございます」という。「夏はエライ(つらい)ですワ」と笑いながら答えていたが、実はお婆さんに拝まれてしまった。夏に歩くとは立派なこと、拝みたいほどエライと言われたのか?
■松山北部の三津浜に大山寺がある。一の門の内に門前町があり仁王門がある。その内側山門までの山中に5軒の接待宿があった。その一軒では赤い番傘をさして茶店をしている。昔、遍路が疲れて、杖を投げ捨てたので注意したところ曲がり竹になったといわれ、現生している。別の遍路宿では、こんにゃく田楽が名物で、子規の句にある。最近、伊予鉄三津浜駅から町内を廻り大山寺の仁王門まで来る100円バスが走るようになった。高齢化のため遠のいていた地元のお参りが、このバスで復活しつつあるという。

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