【都市ツーリズム論参考資料】生協と住吉
■生協と灘住吉
灘神戸生協(現コープこうべ)史料館には、 賀川豊彦氏が記した「協同組合の中心思想」が掲示されている。 「利益共楽」「人格経済」「資本協同」「権力分散」「非搾取」「超政党」「教育中心」。生協の根本理念である。
生協は19世紀前半におけるイギリスの産業革命を背景に起こった。イギリスのロッチディルで、 厳しい労働と貧困の中、生活を守るために28人の労働者が「ロッチディル公正先駆者組合」を結成したのが生協のルーツである。
■コープこうべと「観音林クラブ」
住吉村観音林(現在のJR住吉駅の山手)は明治38年頃に開拓された。山崩れで倒壊した寺跡が雑草と松林になっていた。阿部元太郎氏が地域一帯を買い取り、 上水道を計画し井戸を掘り、 住宅地として開発した。 その頃からここは水や気候がいいと、 財界人が多く住むようになり、 大正2年に住友家が居住して以降は高級住宅地として発展した。
■観音林クラブ
阿部は住宅地開発のほか、 住民同士の交流やまちづくりを考える場が欲しいと、 明治45年に社交クラブ(観音林クラブ)と会館を作った。平素は講演会や座談会を開いたり、 囲碁や将棋などの娯楽活動が主で、 財界のお歴々がくつろぐ場所だった。 その場所が、 後にコープこうべの前身である灘生協を作るときの話し合いの場になった。この観音林クラブからは勅撰議員が5人、 大臣が2人出ている。文部大臣平生釟三郎氏の資産と会員の会費で観音林クラブは運営されていた。平生氏はさらに財団法人「拾芳会」を設立し育英事業、 教育・学術を普及奨励し、甲南病院や甲南学園を創設した。観音林クラブは22年間続いたが、 解消の際には会館が財団法人住吉学園に無償譲渡されている。
■灘購買組合の誕生
コープこうべのルーツである灘生協は、 大正10年に設立された。観音林クラブに行き来していた那須善治が事業に成功し、 その利益を社会事業に使いたいと思ったことが組合発足の起源。 那須は平生釟三郎氏に相談したところ、 新川(現神戸市中央区吾妻)で貧民救済活動している賀川豊彦を紹介した。賀川は、 宣教師をしながら食堂「天国屋」を営みボランティア活動をしていた。そこで、 後の4代目の組合長田中俊介氏と賀川を訪ねたら、 賀川は「寄付や慈善事業でお金をばらまいても社会はよくならない。 それより、 物価を安定させ協同扶助で助け合える社会をつくっていかないと暮らしはよくならない。 協同組合を是非作って欲しい」と言った。那須自身はこの考えにあまり納得はいかなかったが、 平生は自身のロンドン在住の経験からイギリスの協同組合の活動を見ていたので、 賀川の意図を理解した。協議の結果、那須もようやく納得して「生活協同組合に全力を注いでみよう」ということになって、 大正10年に灘生協が誕生する。
(灘とは、現在の東灘区(御影、住吉、魚崎、本山、深江、岡本)をいう。現在の神戸市灘区は、西灘だったが、戦前に神戸市と合併したので「灘区」とした。戦後合併した灘地区は、不本意ながら「東灘区」とされた)
神戸でも川崎・三菱両造船所の労働争議の後、 賀川豊彦の教えをもとに労働者が協同組合を立ち上げていた。労働者が作った神戸生協と事業家が作った住吉の灘生協があいついでスタートした。 明治時代の事業家の心意気で灘生協は誕生しましたが、 事業家自身の平素の暮らしは非常に質素で、 釘一本でも大事にしたそうです。 「日常は質素に、 志は高く」の精神の人達でしたから、 灘生協の運営も当時から「いいものを安く」をモットーにしていました。 那須善治は四国の生まれでしたので、 四国から直取引をして安く仕入れたり、 灘生協が出来たおかげで「お屋敷価格」として周辺より高かった観音林の物価を下げる役割も果たしました。昭和37年には神戸生協と合併し、「灘神戸生活協同組合」と名称を変え、灘神戸生協はさらに1991年に「生活協同組合コープこうべ」と改称された。生協と住吉
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