宮本常一『民俗学の旅』と接待宿
宮本家の先祖は裕福で、没落してからでも善根宿を大正四、五年まで続けてきた(11)
夕飯を炊いているとき、泊めてくれといって訪ねてくる人がある。すると炊きかけている釜へ米を入れそえ、湯をわかしている鍋に水を注ぎそえる。そして、湯がわいてくると、土間にたらいを出し、その中に手だらいを置いて、湯を入れて、顔を洗い、その湯をたらいにあけて、たらいの中で足をあらわせ、座敷へあげる。・・・夕飯は茶粥なのでそれほど手間はかからないが、客のほうから注文がつくと買物に行かねばならぬ。・・・五人も六人も泊まるときは、布団を隣家の母の家へ借りに行く・・・米などを置いて行こうとするときはもらったが、金を置こうとすると追いかけて戻している母の姿をたびたび見た。人を泊めるも泊めないも母の才覚であった。・・・祖母は相身互いだからと言っていた(46)
宮本の父は「ちょっと出てくるから」といって、一人で行先を語ることなく、日光や宮崎まで行った。村でもそんな気風があり、ある凪の夕方、4,5人が船を出した。一週間あまりして帰ってきた。聞けば、海は凪いでいるし、月夜のはづだから、宮島にまいると、折角ここまで来たのだから広島へ行こうとなり、広島まで行くと出雲へまいろうと話が決まって、とうとう出雲大社まで参ってきたのである。明治の終頃の話であろう(40)
渋沢の下で最初の旅は、島根八束半島から江川流域田所村(現邑南町)の田中梅冶、八束半島片句浦(現島根原発の村)山本恒太郎、広島県芸北町樽床(ダムと芸北民俗博物館あり)後藤吾妻、山口県錦町三島清一を訪ね、百姓の子として語らった(105)
歩きはじめると歩けるところまで歩いた。そうした旅には知人のいることは少ない。だから旅に出て最初に良い人に出会うまでは全く心が重い。しかし、一日も歩いているときっと良い人に出会う。そしてその人の家に泊めてもらう。その人によって次にゆくべきところがきまる。その人の知るよい人のところを教えてもらう。そこへやっていく。さらにそこから次の人を紹介してもらう。しかし、その先が続かなくなることがある。そうすると汽車で次の歩いてみたい場所まで行く。そしてまた同じように歩きはじめる(114)
山中に泥棒を泊める落とし宿のたくさんあるも教えられた(115)
昭和52年観文研「あるくみるきく」138号に、67日間日本縦断の記があり、使った金が40001円、拾った金が1105円、すいぶんものをもらって食べ、宿を貸してもらっている。民衆生活に相身互の心がつよく生きていることを知った(207)
『一遍上人語録』百利口語(214)に「口にとなふる念仏を 普く衆生に施して これこそ常の栖とて いずくに宿を定めねど さすがに家の多ければ 雨にうたれる事もなし」「畳一枚しきぬれば 狭しとおもふ事もなし 念仏まふす起きふしは 妄念おこらぬ住居かな 道場すべて無用なり」
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