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2010年5月18日 (火)

宮本常一『民俗学の旅』拾遺

・大正12年大阪へ出て以来、毎年3度か4度は帰っており、自分では出稼ぎのようなつもりで都会生活をしている。どうしてそういう気持ちでいるのかと言えば郷里が私自身をかたく結びつけているものがあるからだろう。そしてそれは幼少時の生活が深く影響しているからと思う(49)と述べ、村の行事や通夜堂、交流のことを記述している。⇒過疎地ほど、クルマがなくてはならぬというが、村の行事や交流もなく、クルマで町の大型ショッピングセンターに連れて行かれるだけの村に、子どもたちが残るわけがない。村から人が居なくなるのは、産業や税収がないからだが、一方で、戻るべき交流やつながりが村からなくなってしまったことが大きいのではないか。人のきずなを断ち切ったクルマ社会の課題がここにあるように思う。夏に、四万十町で講演をするが、このことを町のみなさんと議論したい。
 そこに住む人たちは都市に住む人たち以上に働いている。その生きざまは誠実に
みちみちているのに貧しい。それがそのまま放置されている。国が豊かになるということは隅々まで豊かになることでなければならない。それと同時に人々がもっと賢くならなければいけないと考えた。・・・横へのひろがりがとぼしい。比較と選択する技術にかけている。・・ものを考える力を持つ必要を強調し、そうしたリーダーを尊重する必要を説いている(150)。
 旅の中でいわゆる民俗的なことよりもそこに住む人たちの生活について考えさせられることの方が多くなった。人々の多くは貧しく、その生活には苦労が多かった。苦労は多くてもそこに生きねばならぬ。そういう苦労話を聞いていると、その話に心をうたれることが多かった。そうした人々の生きざまというようなものももっと問題にしてよいのではないかと考えることが多かった。つまり民俗的な調査も大切であるが、民衆の生活自体を知ることの方がもっと大切なことのように思えて来たのである。(96)
 百姓たちと生活をともにしその話題の中からその人たちの生活を動かしているものを見つけてゆこうとすると、項目や語彙を中心にして民俗を採集するというようなことはできにくくなる。何となく空々しい気持ちになる。それよりも一人一人の人の体験をきき、そしてその人の生活を支え、強い信条となったものは何であっただろうか、生活環境はどういうものであったのだろうかというようなことに話題も眼も向いていく。(154-155)
 実は私は昭和30年頃から学問に一つの疑問を持ちはじめていた。ということは日常の生活の中からいわゆる民俗的な事象を引き出してそれを整理してならべることで民俗誌というのは事足りるのだろうか。神様は空から山を目じるしにおりて来る。そういうことを調べるだけでよいのだろうか。なぜ山を目じるしにおりて来るようになったのだろうか。・・・いろいろの伝承を伝えて来た人たちは何故それを伝えなければならなかったのか。それには人々の日々いとなまれている生活をもっとつぶさに見るべきではなかろうか。民俗誌ではなく、生活誌の方がもっと大事にとりあげられるべきであり、また生活を向上させる梃子となった技術についてはもっとキメこまかにこれを構造的にとらえて見ることが大切ではないかと考えるようになった。
 自身の『屋久島民俗誌』を評して、物語のような感じの話を、散文にし、分解して箇条書きにして、言葉そのものの持っていたひびきを洗い落とし、学問らしくしているが、事柄を包む情感、そこに住む人たちの本当の姿を物語る話の筋を、そぎ落としているという。(110)
 

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