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2010年5月

2010年5月27日 (木)

コーチング

まちづくりに熱心な市民の話を聞いていると、ときどきコーチングの話になることがままある。先日、同じ人から2回、同じコーチングの話を1時間づつ聞いた。コーチングの基本は傾聴と、ご当人はしゃべり続けていた?
こうした話は、本当はこの偉い人の話は□万円でとか、自分は教師の資格があって協会の指導者だとかいう話になる。
親切心なのだが、新宗教の雑誌を持ってきて「先生のような方にはぜひ読んでほしい」とおしつけられるのと同じ気分。昔、定時制の教員をしていたとき、ヤクザの父兄から「先生には世話になった。ぜひ親分にご紹介したい」といわれ、ピストル除けの厚い鉄板のドアを通り、虎の毛皮の上に招かれたことも同様。えらい迷惑。
 コーチングの中身は、 1)小さい質問から 2)言葉を繰り返して安心感を与える 3)あいづちと表情 4)答えに対して反応する 5)フォローアップ 6)枕詞+言いにくいことのセット 7)「命令」でも「おせっかい」でもなく、相手にノーという自由がある提案をする 8)相手への信頼を持って質問し、答えを待つ 9)相手のチャンク(塊)の話を、質問によって、自分の中で「絵」になるまで具体化していく 10)理想の状態を十点満点として、今の状態を採点させる。 11)ほめる 12)相手が下ろしているシャッターを上げる。そのためには、常日頃から「通りがかりの一言」を大切にする。「おはよう」「ありがとう」、あたり前の一言に気持ちをこめる。 13)失敗は成功の前提と考え、寛容になる 14)「なぜそれをする必要があるのか」「それをするとどんな利益がもたらされるのか」を明確に伝える必要がある。上司にとってはやって当たり前のことも、もう一度その理由をきちんと言語化する必要がある。 15)答えを教えるのでなく探させる。「どうしたらいいかわからない」と言われたら「その答えを見つけるためにどんな行動がとれる?」と聞き返す。 16)「目標を達成した瞬間のこと、イメージできる?」「その目標を達成したら次にはどんな目標を持つことができるかな?」「目標に向かう過程でどんなことを身につけるんだろう?」「予想される障害にはどんなものがある?」 17)その人があなたにとって苦手なタイプの人であったように、ある人にとってはあなたが、まさに苦手なタイプの人である可能性があります。・・・・・
 こんなことは人からコーチされるまでもなく、個々に取り組んでいることであろう。こうした講座を高いお金で受けている個人、受けさせている企業は、実は問題を解決するのではなく、不安だからコーチング講座を受けているケースも多いのではないか。
 正直に言おう。講座を受けて納得し満足を得て、他人によかれと吹聴しているようでは、傾聴できていない。できる人間は最初から受講しない。受講しても実行が困難な人が受講して安心するだけではないか?
 本当は目の前の人を丁寧にみつめ、臨機応変にコミュニケーションを重ねてトライ&エラーしていく以外にない。それが苦手な人の心の空白こそが、この種の講座や宗教のマーケットなのか。
 私の元友人で、某所で金銭トラブルを起こした人は、コーチングの講師料でみごと返済した。コーチングはそんなに儲かるものかと、驚いたことがある。金銭トラブルの対処の過程で、彼がもともとマルチ商法をやっていたとも後からわかったことである。

もちろん、すべてのコーチングを否定するわけではない。私の経験したコーチングと新宗教では、こういう事実があったということを述べているにすぎない。

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2010年5月26日 (水)

持続モデル特区を妄想

政府の新成長戦略を斜め読みして、持続モデル特区ができたらエーなあとボヤーと思った。
定住圏構築の目標は、持続的地域をいかに創るかである。持続は、人流(A)と市民力(B)によるアセット・リスク・人材育成を含めたマネージメント(C)により、食の自立①、エネルギーの自立②、命育てシステム③をはかることですすむ。
①食糧自給をベースに安全・美味食品のブランド化と商標化をはかり加工・販売・滞在消費を含めた6次産業を構築する。
とともに、
③安全食品とワークライフバランスに配慮した安心子育て環境を整備し、介護ロボット・補助ロボット・ターミナル・ジェネリックも含めたチーム医療・介護の地域システムの構築実験をおこなう。
②再利用可能エネルギー等のスマートグリッドによる低炭素化と、大規模蓄電池・急速充電施設・直流家電整備を配置し、EV・バイオカー・モーダルシフトを適切に組み合わせ、90年比25%削減を、国に先駆けて前倒しで行う。
(A)一時観光、滞在型観光、医療滞在、週末定住、退職者定住、都市近郊フレックス・ホームビジネス定住、若者第六次農業者など、ビジターを増やす
(C)持続社会研究科大学院を設置する
(B)アジア公募のPFI、及びPPPによるマネージメント組織を、住民のシェア参加によって運営する。
※ACは、人的資本の量的質的充実であり、これにより地域経済の再生をはかる。
 これらのことを実施するために特区を設定して、CO2排出通過交通、及び個人・企業の運輸部門・業務部門のキャップトレードにより、低炭素地域構築目的税を徴収し、低炭素化の多様な支援に振りむける。
ex.公共交通を大人半額、学生以下無料とする。ガソリン車から税をとる。駐車場を設けている店舗、事業者からは、駐車場分の税をとる。バスは全部バイオディーゼルとし、バイオディゼル工場を誘致する。

新聞記者のみなさん、単なる妄想です。気にしないでください。

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2010年5月24日 (月)

残間里江子『それでいいのか蕎麦打ち男』

2007年、団塊の世代、700万人が一斉に定年を迎えた。高野山の徒歩参道の九度山駅に、多くの定年男性が突然現れ、驚嘆したことを覚えている。その団塊の世代を、“そんなことでいいのか!”と喝をいれるのが本書だ。
 「蕎麦打ち」、「NPO」、「陶芸」、「世界遺産巡り」という、団塊の男たちの“逃げ込み場”。「ヨン様の追っかけ」、「孫転がし」という、団塊の女たちの“逃げ込み場”。
 そんなものに興じている場合ではない、主役に踊りでる最後のチャンスではないか、というのが本書のテーマだ。
 とはいえ、世代でくくって何かをいうというのが無茶。血液型性格程度の話題だが、かつて、妻の行く先々に「ワシもいっしょに行く」と付いてくる定年後の夫を「ワシモ族」と命名した著者の揶揄は興味深い。
 趣味ではじめた蕎麦打ち男はいつか仕事をやめて蕎麦屋を開きたいなどといいだす。しかし上野藪蕎麦の当主は、「蕎麦打ちがうまくても駄目、汁もつくる、天ぷらも揚げる、デザートもつくる。みんなできなくてはならない」と。蕎麦打ち男ではなくても、その気があればまったく未経験でも本気で商売としてやっていく気さえあれば一月の養成講座で蕎麦屋が開けるという。要はやる気であると。資金計画から、厨房の設計設備、仕入先の知識、種々の蕎麦の作り方、簡単な一品料理の作り方、すべてが必要と。趣味の世界は社会との繋がりがない。商売の世界は社会の中にある。その違いである。
 終身雇用制の最後の世代、年金と退職金が担保された団塊の世代が、拝金主義と私生活主義をひきづって何をするのか。期待していない。そもそも団塊の世代が社会や国家を論じたとき、全共闘から赤軍、無責任環境主義等、ろくなことがなかった。
 筍ほりの爺さんにエリアマネージメントの主体を期待するのは、本当だろうか。
 団塊の世代の泥はねばかりを受けている55歳の私としては、眉に唾をぬって現場で考えるしかない。
 確か、元ゼネコンで各地の開発をし、由布院を気に入って金鱗湖畔に店を開き、そば道場を開いた方は、由布院の地域づくりにも関与されていると聞いている。蕎麦男一般を世代で議論するつもりはないが、地域でどんな働きをしているのか、丁寧にみてみたいと思う。
 私自身、趣味のお遍路も、この夏、本気で通夜堂、接待宿でお話を伺いつつ、通しで廻ってみようと思う。プロの遍路をめざして。

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2010年5月21日 (金)

バス専用レーンと多様な連携

広島は公共交通インフラをバスに頼るバス大国。バス専用レーンも多い。市街地北部・狭い旧国道4車線で歩道も右折レーンも確保しにくい道路にもバス専用レーンがある。ラッシュ時、バスはクルマの半分の所要時間で市街地に入ることができる。しかし、歩道が確保されていないバス停では、路肩を通る自転車、バイクが、バスを待つ乗客と交叉している。

バス会社としては、何とかバス専用レーンを死守したい、専用レーンに入り込むバイクは危ないので排除して欲しい。
 ところが、警察のなかには、バス専用レーンがあるからクルマが渋滞するので、バス専用レーンを優先レーンにして、クルマを捌くことが大切だと公言する人もいる。優先レーンには強制力がないから、結局、実質的にはバスの速達性はなくなる。
 役所のなかでは、ノーマイカーデーを推奨しており、強制は難しく、できるところから拡幅工事をすすめるしかないという考えが強いかもしれない。
 クルマでないと通勤できない市民、クルマの気楽さになれた市民からは、この渋滞を何とかしろという声が強い。バスを利用する市民は、バス停付近の安全を確保して欲しいという声があるだろう。沿線の市民からは、道路環境を何とかしろとの声が出つつ、個々の立ち退きとなると抵抗が強く遅々としてすすまない。市民も多様なのだ。

まったく異なる価値観が共有する道路をどうするかは難しい。こういう場合は、なぜクルマが流入してくるのかを分析する必要がある。ところが、渋滞しているクルマが、近隣の急斜面住宅なのか、遠い郊外からの流入車両なのかがわからない。また、旧国道を通過して堤防沿いに西部市街地に行くのか、市街地南部に行くのか、行先も不明。正確なデータが欲しいが、そもそも現状では調査が困難である。

こうした場合どうするか。
 まずは、バス会社、警察、市役所、ドライバー、バス利用者など個々の立場での、現状把握・認識、対処方針・政策、評価・現状課題 を整理する必要がある。運輸局は対面コミュニケーションで個々の立場の現状把握・認識、対処方針・政策、評価・現状課題 をヒアリングし、一覧を作る。
 その一覧を、連携会議の公募市民に示して、市民感覚で打開案を模索する。可能な案が出れば、議論して県市広報紙等で示し、ひろく市民に理解と意見を求める。

おそらく、学校・大口事業所の時差通勤・乗合通勤・クルマ抑制協力、堤防上迂回路の交通制限、それに加えて特定のターゲットを想定した急行バス、 以上の集中的実証実験で、ほぼ解決できるものと私は思っている。
 なぜなら、人は90cm×90cmの占有面積を有するが、クルマは一人で1.68m×6m=12倍の道路面積を占有する。バス専用レーンを廃止してクルマの道路空間利用をに2倍にしたからといって、渋滞が解消できる確信はなかなか持てない。むしろ、バスの速達性が失われ市民がクルマに乗り換えてしまい、ますます渋滞が増える可能性が大きい。
 むしろ、12倍の道路占有をするクルマドライバーの5%が、時差通勤、乗合通勤、実証実験バスへの一時乗換え など、少しの面倒を引き受けてくれれば、渋滞は解消できる。

その方向への多面的共通理解、協働的戦略的取組みができるかどうかが重要なポイントである。そのヒントは、自動車ディーラー広島マツダの取組みにある。広島マツダでは、自動車の成約記念品として、パスピー(公共交通ICカード)を配布している。クルマ販売の機会に、クルマだけに頼らないあり方を提案するこの試みは、渋滞緩和に寄与し、結果、クルマの価値を高め、クルマ販売促進の効果が想定される。こうした知恵のある市民事業者と協働して、バス専用レーンを守り、その活用、実質化を推し進めたい。 

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2010年5月19日 (水)

西郷真理子さん

就職活動を終えた昨年の受講生(理学専攻)から、嬉しいメールをもらった。
>専門科目の授業で習った事を日常生活や研究の中で思い出すことはほとんどないのですが,不思議なことに先生の授業の話は,政治のニュースを見ている時や日常の中でよく,それも話の流れまで思い出すことがあります。
 教師としては最高に嬉しいですね。
そのメールに日経ビジネスに授業で紹介した西郷真理子さんのインタビューを発見。スキャナーして送ってくれた。
・地権者と利用者をわける
・現況40-50坪の店舗を、300-500坪の大型店舗と10坪のスモールビジネスにわける。屋台村はその手法。
・商店街はコミュニティコンビニにする。
・商店街は通路ではなく広場ととらえなおしベンチなどを置いて気持ちよくすること
・二毛作(昼は老店主、夜は若者店主)とする。

ここまで書いて気づいた。いっそ、地元の店がオーナーチェーンのコンビニをして高齢者用パンツを販売し、その前や右横をデイケアにすればよい。自由な友だち出会いの日:フィーリングカップルの日を設定すれば、人が集まるのではないか。左横を保育園、その隣に10坪のコーヒーつき按摩・足もみをすれば複合サービスで支払い金額も大きくなる。こうした経営をしつつ、エリアマネージメントをする若者が食べていけるようにすることが大切ではないか。

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2010年5月18日 (火)

宮本常一『民俗学の旅』拾遺 出稼ぎ 民俗より生活

・大正12年大阪へ出て以来、毎年3度か4度は帰っており、自分では出稼ぎのようなつもりで都会生活をしている。どうしてそういう気持ちでいるのかと言えば郷里が私自身をかたく結びつけているものがあるからだろう。そしてそれは幼少時の生活が深く影響しているからと思う(49)と述べ、村の行事や通夜堂、交流のことを記述している。⇒過疎地ほど、クルマがなくてはならぬというが、村の行事や交流もなく、クルマで町の大型ショッピングセンターに連れて行かれるだけの村に、子どもたちが残るわけがない。村から人が居なくなるのは、産業や税収がないからだが、一方で、戻るべき交流やつながりが村からなくなってしまったことが大きいのではないか。人のきずなを断ち切ったクルマ社会の課題がここにあるように思う。夏に、四万十町で講演をするが、このことを町のみなさんと議論したい。
 そこに住む人たちは都市に住む人たち以上に働いている。その生きざまは誠実に
みちみちているのに貧しい。それがそのまま放置されている。国が豊かになるということは隅々まで豊かになることでなければならない。それと同時に人々がもっと賢くならなければいけないと考えた。・・・横へのひろがりがとぼしい。比較と選択する技術にかけている。・・ものを考える力を持つ必要を強調し、そうしたリーダーを尊重する必要を説いている(150)。
 旅の中でいわゆる民俗的なことよりもそこに住む人たちの生活について考えさせられることの方が多くなった。人々の多くは貧しく、その生活には苦労が多かった。苦労は多くてもそこに生きねばならぬ。そういう苦労話を聞いていると、その話に心をうたれることが多かった。そうした人々の生きざまというようなものももっと問題にしてよいのではないかと考えることが多かった。つまり民俗的な調査も大切であるが、民衆の生活自体を知ることの方がもっと大切なことのように思えて来たのである。(96)
 百姓たちと生活をともにしその話題の中からその人たちの生活を動かしているものを見つけてゆこうとすると、項目や語彙を中心にして民俗を採集するというようなことはできにくくなる。何となく空々しい気持ちになる。それよりも一人一人の人の体験をきき、そしてその人の生活を支え、強い信条となったものは何であっただろうか、生活環境はどういうものであったのだろうかというようなことに話題も眼も向いていく。(154-155)
 実は私は昭和30年頃から学問に一つの疑問を持ちはじめていた。ということは日常の生活の中からいわゆる民俗的な事象を引き出してそれを整理してならべることで民俗誌というのは事足りるのだろうか。神様は空から山を目じるしにおりて来る。そういうことを調べるだけでよいのだろうか。なぜ山を目じるしにおりて来るようになったのだろうか。・・・いろいろの伝承を伝えて来た人たちは何故それを伝えなければならなかったのか。それには人々の日々いとなまれている生活をもっとつぶさに見るべきではなかろうか。民俗誌ではなく、生活誌の方がもっと大事にとりあげられるべきであり、また生活を向上させる梃子となった技術についてはもっとキメこまかにこれを構造的にとらえて見ることが大切ではないかと考えるようになった。
 自身の『屋久島民俗誌』を評して、物語のような感じの話を、散文にし、分解して箇条書きにして、言葉そのものの持っていたひびきを洗い落とし、学問らしくしているが、事柄を包む情感、そこに住む人たちの本当の姿を物語る話の筋を、そぎ落としているという。(110)
 

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2010年5月16日 (日)

宮本常一『民俗学の旅』と接待宿

宮本家の先祖は裕福で、没落してからでも善根宿を大正四、五年まで続けてきた(11)
夕飯を炊いているとき、泊めてくれといって訪ねてくる人がある。すると炊きかけている釜へ米を入れそえ、湯をわかしている鍋に水を注ぎそえる。そして、湯がわいてくると、土間にたらいを出し、その中に手だらいを置いて、湯を入れて、顔を洗い、その湯をたらいにあけて、たらいの中で足をあらわせ、座敷へあげる。・・・夕飯は茶粥なのでそれほど手間はかからないが、客のほうから注文がつくと買物に行かねばならぬ。・・・五人も六人も泊まるときは、布団を隣家の母の家へ借りに行く・・・米などを置いて行こうとするときはもらったが、金を置こうとすると追いかけて戻している母の姿をたびたび見た。人を泊めるも泊めないも母の才覚であった。・・・祖母は相身互いだからと言っていた(46)
宮本の父は「ちょっと出てくるから」といって、一人で行先を語ることなく、日光や宮崎まで行った。村でもそんな気風があり、ある凪の夕方、4,5人が船を出した。一週間あまりして帰ってきた。聞けば、海は凪いでいるし、月夜のはづだから、宮島にまいると、折角ここまで来たのだから広島へ行こうとなり、広島まで行くと出雲へまいろうと話が決まって、とうとう出雲大社まで参ってきたのである。明治の終頃の話であろう(40)
渋沢の下で最初の旅は、島根八束半島から江川流域田所村(現邑南町)の田中梅冶、八束半島片句浦(現島根原発の村)山本恒太郎、広島県芸北町樽床(ダムと芸北民俗博物館あり)後藤吾妻、山口県錦町三島清一を訪ね、百姓の子として語らった(105)
歩きはじめると歩けるところまで歩いた。そうした旅には知人のいることは少ない。だから旅に出て最初に良い人に出会うまでは全く心が重い。しかし、一日も歩いているときっと良い人に出会う。そしてその人の家に泊めてもらう。その人によって次にゆくべきところがきまる。その人の知るよい人のところを教えてもらう。そこへやっていく。さらにそこから次の人を紹介してもらう。しかし、その先が続かなくなることがある。そうすると汽車で次の歩いてみたい場所まで行く。そしてまた同じように歩きはじめる(114)
山中に泥棒を泊める落とし宿のたくさんあるも教えられた(115)
昭和52年観文研「あるくみるきく」138号に、67日間日本縦断の記があり、使った金が40001円、拾った金が1105円、すいぶんものをもらって食べ、宿を貸してもらっている。民衆生活に相身互の心がつよく生きていることを知った(207)
『一遍上人語録』百利口語(214)に「口にとなふる念仏を 普く衆生に施して これこそ常の栖とて いずくに宿を定めねど さすがに家の多ければ 雨にうたれる事もなし」「畳一枚しきぬれば 狭しとおもふ事もなし 念仏まふす起きふしは 妄念おこらぬ住居かな 道場すべて無用なり」

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2010年5月14日 (金)

渋沢敬三が宮本常一に託したこと

開戦前に日本の敗北を予感し、敗戦後日本が復興するには、日本の民衆の暮らしを基礎にせねばならぬと考えた渋沢敬三日銀副総裁(戦後、大蔵大臣)は、宮本をアチックミュゼアムに居候させ、私費を投じて宮本に全国を歩かせた。そのとき、渋沢は次のような教訓を話している。
「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落されたものの中に大事なものがある。それを見つけていくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人が優れた仕事をしているとケチをつけるものが多いが、そういうことはどんな場合にもつつしまねばならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときは黙って、しかも人の気にならないようにそこにいることだ」
 自分自身を反省すると、身が縮む思いがするが、これがなかなかできないのも人間である。そういう自分をいとおしく思いつつ、この教訓を心に留めたいと思った。

宮本は、周防大島から大阪・東京に出稼ぎに行っているつもりで、郷里の畑を耕し、年に何度も帰っていた。それは子ども時代の楽しい行事、記憶が、宮本を固く郷里に結びつけているからである。今日の過疎・限界集落のもうひとつの原因は、地域の暮らしが地域連帯・子どもたちの記憶に残るものを失ったからではないかと思う。
 宮本は「どんなところにも人間の意思がはたらき、それが現実のものとなっており、しかもその意思と意思には限界があり、限界が境を作っているのである」という。宮本は、民俗的なものよりも、暮らしの中にある意思を読み解きたいと考えていたのである。

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2010年5月12日 (水)

豊中まちづくり・千里NTのまちづくり授業〈学生飛び入り参加歓迎>

期日:5月17日(月曜)16:20-17:50
於:大阪大学豊中学舎CSCD1階、オープン教室
 石場駅下車、http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/about/access.html
  阪大坂を15分、登録文化財浪速高校イ号館を右にあおぎ直進すると、左に物理化学棟、その先に左に掲示板のある並木道に入る。
  掲示板がとぎれると、左手奥に赤、緑、青の旗とカフェがみえる。その下がオープン教室です。
テーマ:千里NTのねらいと今から思えば
スケジュール:45分 千里NTの計画とねらい(戸田様)
         30分 学生感想、語り合い、質問
         15分 今から思えば、これからどうする 語り合い
終了後 少し茶話会(可能な学生さんは、ぜひ参加ください。というか、授業中から茶話会状態?)

■スケジュール
文系が語る都市計画ではなくまちづくり、まち育て、エリアマネージメント⇒森栗4/12、4/19(一般参加は社会人公開講座で)
豊中市のまちづくりの流れ(豊中市職員)4/26
討論(豊中市のまちづくりを考える)5/10
千里ニュータウンのまちづくりの変遷(T@大阪府)5/17
徹底自由討論(千里ニュータウンは魅力的か?これからどうする)5/24
5/29(土曜)集合未定10-16 時くらいを予定【現地まちあるきパート1】
豊中市のまちづくり(各協議会の議論)(豊中市職員)5/31
討論(阪急沿線のまちづくりはこれで良いのか?)6/7
6/5(土曜)【現地まちあるきパート2】
大討論「豊中はこんなまちになったらエーなあ」とプレゼン作戦会議
以上の順で講義をすすめる予定。状況により変更もありえる。
OP 12 月18 日中之島センター(学部生発表「豊中市の町とまちづくりを考える」、院生受講:この会のみ一般参加歓迎)

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2010年5月11日 (火)

【授業;ツーリズメディエート論】

大阪近郊の良好な郊外都市のまちづくりの流れと現状の課題、それに対する学生の意見

村社会  ※電気は最初から電車が引いた

郊外住宅 インフラ課題(学校、病院、警察、消防、衛生)

1945年― 戦災→復旧と財政健全化→福祉課題
S30年代(1955-65)
  
産業インフラ課題(阪神高速、名神高速、空港整備)
                            →公害
S40年代(1965-75)  千里NT開発+下水道整備
  一方で
  密集住宅地(スプロール)問題
万博1970年
中央環状線(1970)、中国道(1970)新御堂筋(1969)
オイルショック1973年、1979年
=日本都市生活は世界情勢と関係密接(不安定)
               
→エランブイエ第1回サミット
水害対策
S42(1967)年7月豪雨で決壊し、市内全体で床上浸水4308戸。1994年から2006年にかけ4回の大きな水害被害をうけている。市はかさ上げ、千里園ポンプ場の建設や増補幹線整備、公園貯留や学校の校庭を利用した校庭貯留などを様々な水害対策を行なってきたことで、豪雨でも局地的なものに抑えれるが、被害は残る←上流開発、温暖化
1979年~ 庄内再開発 ←地主の思い、居住者の思い、行政の心配
1980年代 アメニティ・高福祉の要求
                   
 美濃部都政:1967-79年ばら撒き福祉                                                                 自治体不効率
                                    
1971–1979黒田了一革新府政
挙句1990年頃 財政逼迫
 ←年金生活市民(要求水準は下げられないが納税は少ない)
1995年  震災 ⇒基金も底をつく・自治体財政逼迫
▼まだまだせなばならんこと山積
  
高齢化⇒道路のセミフラット化
  
防災・渋滞⇒広域移動の確保
  
地域環境課題
全体課題は、個別課題のかなに解がある(はず?)
                  ⇒協議会方式(まちづくり構想)
 しかし、誰が継続するのか
 
どのように継続するのか が課題
■学生の意見・・・・・・多世代参加が必要ではないか、NPO参画による運営組織が必要、いや協議会よりも役所がやったほうが

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2010年5月 7日 (金)

乞食旅行

日本一歩いた民俗学者、宮本常一は、年間200日以上を十数年、村々を歩いた。宮本は民俗学仲間として訪問し、百姓仲間として迎えられ、聞き語りした。ほとんど宿泊費のいらぬ乞食旅行であった(『宮本常一著作集第1巻 民俗学への道』)という。
 宮本の歩いた60年代・高度経済成長前の日本では、日々の厳しい労働の中でも、旅人を迎え泊めて、仲間として語り合う気風があったのである。無財の七施をいうまでもなく、風の人を受け止める自由な空気があったのである。
 私もまた、宮本にあこがれ、その真似をして中国山地を歩いたことがある。夕暮れになって村を歩き、困り果てて泊めてもらったこともある。娘を都会に出した家で、子ども仲間として、受け入れてくれたのである。1974年頃の話である。

近年は、歩いている若者を泊めようものなら、危ない宗教か商売勧誘かもしれず、見知らずの人を泊めることはない。四国の接待宿は、特別なものではなく、一昔前の日本には、通常にあった。ただ、お遍路・お大師様という共通の信仰・尊敬をもって結びついた関係が、この乞食旅行の風を残したのである。また開発から取り残された四国という環境が、乞食旅行をささえる接待宿の風を残したのである。

我が家は小さい。しかし、西宮北口という便利な駅の直ぐ近くにあり、講演をしてもらった仲間に泊まってもらうことがよくある。ときには、深夜まで飲み明かすこともある。ホテルに泊まってもらってもよさそうなものだが、生活の中に仲間に入ってもらってのコミュニケーションは、泊まる側の遠慮・泊める側の気遣いをはるかに越えるおおきな快感である。子ども仲間としての学生らを破屋に招いて食事をともにするのも同様の楽しみである。

 

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2010年5月 6日 (木)

お接待文化は困難を極めている

連休、授業として学生と遍路ころがしを歩いた。
 学生は、地元の方といろんな出会いがあったようで楽しそうだった。
 学生どおしも、先に歩いたり、休憩で出会ったり、専攻や研究室の枠を越えた交流が楽しかったようだ。
 ただ、最近は、過疎の一人暮らしの老人宅に、集団で上がりこみ、お接待だといって勝手に飲み食いを要求し風呂まで入っていく者がいるという。それで、過疎村の高齢者住宅が昼でも鍵を閉めているというから、驚いた。
 各地の接待宿も、こうした輩が居つき、困り果てた施主が接待宿をやめたケースが多い。
 考えてみると、自動車は便利だし、お金さえ出せば何でも手に入れることができるし、私などの子どもの頃に比べればみんな立派な家に住んでいる。しかし、その結果として、自動車なければ何もできない町=子ども・高齢者が途方にくれる、安ければを求めて意味のない渋滞に陥る人々、無秩序なスプロールと田んぼの中の巨大SC(ショッピングセンター)。
 千円高速で「安い」と思って、高松にうどんを食べに行く人が30km渋滞していた。これは幸福なのであろうか。

 巡礼道の場で出会った人々が、相互に尊敬し信頼し、語り合うお接待が危機に瀕している。境内まで侵入するクルマ、駐車場。短時間に札所を回れば良いとするスタンプラリー。四国遍路もまた、現代社会の課題と無縁でない。

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