鉱山民俗学⇒都市、都市⇒復興まちづくり、コミュニティづくり⇒交通
私は文学博士。奇妙な研究軌跡を残してきた。30歳代、若尾五雄という産婦人科医師の書いたものを編集し『物質民俗学の視点』①-③を出した。若尾先生の繰言のように書かれた「泉州情報」(ローカル紙)を集め、言葉を補足し、筋が通るように編集し、復刻した。本は、都道府県図書館や国会図書館に寄贈した。 若尾の文章は脈絡がわかりにくく、繰り返しが多く、論証も弱い。誰にも相手にされず孤独な人でした。
ただ、谷川健一、内藤正敏、五来重などは、その成果を活用(谷川氏は軒貸して母屋とる)した(谷川健一、小学館文庫「青銅の神の足跡」解説・森栗)。あまりの編集苦のため、私は「こんなことは40を過ぎたらしないぞ」と言いつつ編纂した。そうする間に、人文書院が「黄金と百足」として出してくれた。都合4冊のゴーストライトをした。
私個人は、沖縄の鍛冶研究の行き詰まり(伝承学では谷川健一に勝てない、技術史では朝岡康二に勝てないという袋小路)で若尾さんにすがったのに、逆に取り付かれ、結局、研究は都市研究に移していました。こうしたなか、若尾自身の記憶がなくなりかけるなかで、本人が「まだかまだか」と言いつつ『黄金と百足』が1994年刊行された。若尾先生は、自分が読めない自著を毎日さすりながら、晩年をすごしたという。1995年に震災がおき、私は瓦礫撤去から復興まちづくりにのめりこむ。震災復興に走っている途中に、訃報が入る。若尾は、私の「言葉」のとおり、私が40を終えた誕生日6月26日に亡くなった。
震災後の私は、仮設住宅のコミュニティづくり、復興住宅のコミュニティづくりに関わり、仲間と(特)神戸まちづくり研究所を設立します。NHK未来潮流「震災と三人の映像作家」?で、まとめたような気がします。
2004年からは、コミュニティづくりの意味ではじめた、地域交通まちづくり(住民協働型コミバス)が成功し、今に至っています。私が都市研究に入ったのは、職人を見てきたからですし、交通という土木計画に関わっているのもおもしろいめぐり合わせです。(若尾先生の基本は土木技術伝承。そこから鉱山伝承に入った)
そう考えてみると、ユーザーイノベーションの第一歩が、文化人類学的観察であり、若尾先生の調査の第一歩が、問診「このあたりに鉱山はありませんでしたか」であったのは面白い。 55歳になって、ふりかえって思う。ひょっとして、今の仕事をしている私の脳に、若尾先生が棲み付いているのではないかと・・・。そういう意味では、土木計画の政策に忙しく、文化財訓詁学の民俗学とはおさらばした私ですが、どこかにもう一つの民俗学があるのかもしれません。
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