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2009年3月 5日 (木)

「老い」の位置:『老いの近代』『老熟の力』

1月11日の高齢ドライバーの心理に関して、success aging 老いてなお盛ん、亡くなる直前までクルマに乗るのではなく、クルマを手放しても安心して暮らせるような productive aging が必要だと指摘した。

民俗学では、経験を負い重ね、翁として場を見守り、隠居として人々を導く高齢者像があり、姥捨ては、特殊な生産構造のなかで起きたことと考える。これを、宮田登は老熟と表現した(『老熟の力』)。

老人力が、老いてなお盛んな年寄りパワーと誤解され、永遠に皺がない、永遠に運転ができ、永遠にセックスできることが良しとされるのは、問題だ。永遠に元気で、突然、きれいにポックリ行く、success aging だけが理想で良いなら、人々が幸福を感じるのは不可能だ。なぜなら、人生の成長期は短く、大半は諦め:予定変更の連続だから。私事だが、母に「ころんじゃ困るから、押し車や杖を使っては・・・」と私が薦めると、母はいつも「押し車や杖を使うと、お仕舞いだ」いう。老いを素直に受け入れられないのも人間の性(さが)である。

偉大な哲学者:綾小路きみまろが指摘するように、賞味期限が切れたことを認識することでしか、その現実の生は見い出せない。「何かを失うことは別の何かを得ることである」「『状況』の崩壊が創造をうむ」(天野正子『老いの近代』)のである。「『あきらめる』は『明らかに究める』ことなのだから。

私も、老害を重ねるのではなく、上手に諦める生き方をしたいと54で思った。早くはない。昔は若隠居が理想とされ、30歳からの隠居もあった。

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