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2008年11月18日 (火)

お遍路コミュニケーションの評価

Img_0053_2 1 状況
苦し紛れに作った大学院共通科目「お遍路」が、予想以上の人気と、想像を越えた集団コミュニケーションの盛り上がりを生み、相互の関係をさらに展開しようと「アフターお遍路」コミュニケーションサイトが、自主的に立ち上がろうとしている。
参加者は16名、うちベトナム人1名、ドイツ人(ゲスト)2名であった。プログラムとしては、
①春にオリエンテーションミニ遍路+自宅カレーパーティ
②春連休に、日帰り遍路体験
③秋に2泊3日の区切り遍路
を行った。カレーパーティでは、十数人分のカレーを作るのは大変であったが、皆、喜んだ。春の②に出れないという学生(理D)が、強行に秋を主張した一方、秋は留学 するという学生(工M)もいたので、どちらも実施した。いやはや大変であった。
しかし、どれも成功裏に終わり、学生たちの満 足を得た。なかには、2泊三日のお遍路の最後に「寂しくなる」ともらす学生が出るほどであった。研 究の先達である教 育者としては、学生たちの喜び、達成感にふれて微笑むのみならず、なぜそこまで学 生が満 足できたのか、いったいこの授業は何をもたらしたのか、単に楽 しい、コミュニケーションできたというのでなく、なぜコミュニケーションできたのか、なぜ楽しかったのか、どんな効 果があるのか、大阪大学の専 門家の皆さん(大学院生)には、興奮する自己を冷静に見つめるもう一つの自己を育てていただきたい。そういう意味で、今回は教 員がレポートを書く。

2 授業の趣旨
2-1 お遍路の意味
 人とは、存在の側面と関 係の側面を生きている。ともすれば、高齢化率、社会 資産、細胞の集合など、人間存在のみが議論され、もう一方の関 係としての人間を見失いがちである。
 後者の側面にたてば、人とは他者と出会う瞬間、多様 な瞬間をアンサンブルする場を生きている。その知性は、前者が提供する情報知というよりは、アート的感動をともなう情意知、ダイナミックな知である。
 前者が線形システムだとするならば、後者:関 係の側面は非線形システム(カオス)であり、なぜか、非線形システムの全体は、部分の総 和よりはるかがなく、延藤もどきである。折口信夫によれば、民俗芸能におけるもどきとは、真似ることであり、もどきこそ、本物よりも本質を照射するという。ときに「場面展開」としての笑いを含むもどき・・・。本論は笑いの場面展開により、真 実 を意図した贋作である。】
多様な学生が集まった期待や、主催者の教員の能力をはるかに越えた成果が、得られて「しまった」。
 なぜなら、そこでは、命令や法ではなく、内 発 的なルールに従って秩序の生成がなされたからである。
 こうした非線形カオスは、お遍路という自由デザインのコミュニケーション文化を通じでのみ可能であったのかしれない。お遍路は、
ⅰ)統一的な宗教 的作法が明確ではない、個人の自由にまかされている
  ex.88箇所連続しようが、区切り打ちにするかは自由である。また、歩こうが、自動車にしようが、いやそれどころか、読 むお経の順列・中身についても、かなりばらつきがある。
にもかかわらず、
ⅱ)弘法大師の開いた場での、人と人とのコミュニケーション、人と自然とのコミュニケーション、人と暮らしの場・風景とのコミュニケーションが、立ち現れる
システムである。お遍路という総 体が、世代を越えて永続 し、各個人のなかに再生産され、社会的な複雑 性を再生する。これを文化という【注2】。
【注2:エドガール・モラン著、大津真作訳(2006)『方法5-人間の証明』法政大学出版、18頁】
に大きい【注1】。
【注1:本論は、延藤安弘「「游歩 謀 賛 」としてのワークショップ」『日本文化の空間学 』(2008)20-50頁、東信堂、に学 び、真 似る。本論の根幹はオリジナリティ
文化への意思「お遍路をしてみたい」は、実は、宗教ではなく、個人的な価 値実 現の意思なのである。

2-2 歩きの意味
 お遍路体験は、歩きである。文化を歩くとはどういう意味を持つのであろうか。
 フランスのラポルト精神病院のジャン・ウリは、「重要なのは循環すること。やりたいことをさがして、うろつくこと」と述べている【注3】 。
【注3:三脇康生(2006)「詩的ロジックとは何か」『日常を変 える!クリエイティブアクション』フィルムアート社、132-139頁】
巡る(循環)ことで、他者と出会い、in-pressions を受けて、inter-action を起こす、そういう雰囲 気がお遍路にはある。ベンヤミンは「都市に迷い、迷うなかで陶酔 する遊歩 者のもとにたちあらわれる都市のもう一つの現実 」と表現し、遊歩 する【注4、注5】  【注4:桑子敏雄(1998)『空間と身体―新しい哲学 への出発 』東信堂、5-18頁】
【注5:ホイジンガーは、これをホモルーデンスと表現した】
wanderingなかでのwonderingに着目している。人に出会い、自然環境に出会い、生活の風景に出会うなかで、面が向く=趣くのである。
 お遍路の陶酔(昼食をとれなかった陶酔、直線階段での気力減退での陶酔、相互の声掛け合う陶酔)は、風にのって共に歩く人と、接待する土の人とのコミュニケーションで最高潮を迎える。学 生は風の人として空間共通体験 のなかでの自由対 話で、状況のコミュニケーションデザインを歩 きながら描き、無意識のうちに、強い思考を経 験 することができた。
 人は、間inter に存在esse することで、興味interestを持つ。面白いとは、面が暗い局面から、新しい白(しら=生まれ変わり)を発見する瞬間であり、こうした現場での実 践 知(プロネーシス)を経 験 することは理論知(ソフィア)とは異なる思慮(プルデンス)を導くのである。お遍路は、面白い。面白くなければ、思慮は生まれない。
「若者よ。書を捨て、町に出よ」そして、思慮にふれたならば、再度、書を拾ってみるが良い。そこに、思いもつかなかった「面白い」があるから・・・。

2-3 知としての遍路
 20世紀の科学は、存在を機能で分類し、切り分けるzoning することでなりたってきた。しかし、その結果みえなくなってしまったものも少なくない。科学にはもう一つあり、多様な関 係性を生命的文脈で読 み込 み、カップリングして融合することもまた、重要である。専 門家はobserver を越えて、participatorとして、専 門知と生活知とを融合させて、創発しなければならない。
 融合は、心象impression したことを語り合うexpression してこそなりたつ。
情報による説 得、ディベート=争 いではなく、共通の場における情意により、笑い・想像力・感謝が響きあい、納得が得られる。仏 教 的に言えば、図 のように説 明できるのであろうか。

図 概 要

 数 値データー⇒説得⇒了解=智慧で(一時的行動、非安定行動)をうながす
       説得⇒納得
    協働⇒響感⇒納得=慈悲で(日常変化、継 続 安定行動)を導く

2-4 仏 教 としての遍路から得ること
無罪の七施
 慈眼施、和顔施、愛語施、捨身施 、心慮施 、牀座施 、房舎施、十善戒
お接待とは、この考えから出ている。学 生に対 して、私は、いつも接待できているか、点検せねばならない。
一方、お遍路で誓う言葉に十戒がある。何度、唱えても難しいのであるが、声に出して誓うことは重要である【注6】。
【注6:当 然ながら、公立教育においての宗教 強 要は避けねばならないが、個人として、文化として、そうした誓いがあることにふれることには、意味があると思う。】
   不殺生・・・むやみに生き物を傷つけない、
   不偸盗・・・ものを盗 まない、
    不邪婬・・・・男女の道を乱さない、
   不妄語・・・・・うそをつかない
     不綺語・・・・無意味なおしゃべりをしない、
      不悪口・・・乱 暴なことばを使わない
     不両舌・・・筋の通らないことを言わない、
      不慳貪・・・・欲深いことをしない
     不瞋恚・・・・・耐え忍んで怒らない、
      不邪見
ほとんど誓えない言葉を、88箇所×(大師堂+本堂)=176回、大きな声で唱えるのは、苦痛である。しかし、声に出して言い、歩いて巡り、人に出会い語り合う。その身体と心の相互作用の中にこそ、大きな知の基礎があると私は考えるのである。

3 何をめざすのか
 研 究者よ。何を目指して研 究するのか。研 究らしき格好をつけて、わずかばかりの職位と俸給を得るためやっているのか。些少のカネのためとは言いながら、学生相手に真 理らしきごたくを説いているのか?
 日本文化研究を開拓した柳田國男は言う。民俗学とは「世のため人のためのルーラルエコノミーである」と。実 際の民俗学 がそういう方向をとれたかどうは別として、文化の深みから、経 世済 民のため、エリア・マネージメントを考えようというのであるから、見あげたもんだよ、屋根屋のふんどし【注7】
【注7:テキヤの口上のひとつ。映画「男はつらいよ」で寅さんが良く使う。】
<もとい。綺語悪 口でありました>
 ベルグソンはこうした現場におけるemergence創発 のデザインを、創発的進化emergent evolutionと表現し、場における生命のはずみによる創出プロセスのデザインに関心を寄せている。
 もし本講義が成功したとするならば、それは単 に仲良くなっただけではない。研 究室や倶 楽 部のヒエラルキー的な二分法を超え、多様 な専 門家の垣根を越えた水平的関 係をつむぐ、理論知を越えた実 践 知の入り口に大阪大学の大学 院生たちが立ったということである。
 なかには、狭 義のカップルもたちあらわれる可能性もあり、「出会い系実 習」とも揶揄されそうであるが、狭 義のカップリングは、実 践 知としての広 義のカップリングの延長上の派生であり、それも否定するものではないと考えている。

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