2019年4月29日 (月)

「美しき村」pp243-252「豆の葉と太陽」(『柳田國男全集』第12巻)

■それよりも私に先ず珍らしかったのは、 何の模倣も申し合せも無い筈の、数十里を隔てた二つの土地で、 どうして又是ほども構造が似ているのか、 尋ねても答えられそうな人が居ないから聴かずに戻って来たが、 久しく不審のままで忘れずに居たのである。p243
■しかも風景は我々が心づくと否とに拘らず、 絶えず僅かづつは変って行こうとして居る。 大よそ人間の力に由って成るもので、 是ほど定まった形を留め難いものも他には無いと思うが、 更にはかないことには是を歴史のように、 語り継ぐ道がまだ備わって居ないのである。pp244-5   ⇒自己相似性によるスケールフリー構造だから当然だ
自己相似性による
コッホ曲線19 フラクタル18
■しかし旅行をして居るうちには、 別にここという中心も無いような、 村の風景に出逢うことが段々に多くなる。 ………斯ういう茫として取留めの無い美しさが、 仮に昔のままで無いとわかって居ても、 之を作り上げた村の人々の素朴な一致、 たとえば広々した庭の上の子供の遊びのような、 おのづからの調和が窺われて、 この上も無くゆかしいのである。p245 ⇒カオス力学におけるフラクタルを考えれば 当然
■そうすると古い親しみを忘れず、 甲の家でも乙の家でも、 片隅に芽生えたものだけはそっとして、 其成長を見守って居たのが、 やがてはそれぞれに程よい配置に就いて、 斯うした珍しい村の相貌を、 形づくることにもなったかと思われる。p246
■村は住む人のほんの僅かな気持ちから美しくもまづくもなるものだということを、考へるような機会が私には多かった。p246
■歳月と生活とが暗々裡に、我々の春の悦びを助けて居たのだということは、性急な改良論者のもう少し考えて見なければならぬ点であろう。p247   ⇒生活の臨機応変性、フィードバック性
■土地と樹木との因縁は、 我々などよりもずっと深く根強く、したがって又ゆっくりとして居る。p250   ⇒自然こそ、人の性急な手を及ぼさねば美しいものなんだ
■強いて風景の作者を求めるとすれば、 是を記念として朝に晩に眺めて居た代々の住民ということになるのではあるまいか。p250
■風景は果たして人間の力を以て、之を美しくできるものであらうかどうか。もしも可能とすればどの程度に、これを永遠のものとすることが許されるのか。
■次々去っては又来る未知の後生と、 それではどういう風に心を通わし、 思いを一つにすることが出来るかが問題なのである。p252
■ただ、大事なのは発願である。p252
■風景は果たして人間の力を以て、改良し美化することが出来るか否かである。天然は、持って生まれためいめいの顔のようなもので、人力を以て如何ともすべからざるものであるかどうかである。p344
金野幸雄「『美しき村』を計画する~兵庫県緑条例(丹波地域)の取り組みから~」2004年度第7回都市環境デザインセミナー記録

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酒井敏『京大的アホがなぜ必要なのか―カオスな世界の生存戦略』凸版印刷、2019年 スケールフリー 臨界状況

19世紀  ダーウィンが進化論を書くまでは 神が世界を作った

19-20世紀 「すべては因果律によって成り立ち、自然科学で未来予測が可能だ」=20世紀科学信仰

これを「ラプラスの悪魔」p29-32 とよぶ。            しかし、

1963年ローレンツ・アトラクター コンピュータによる完璧な天気予報は不可能という結論自然界はカオスだp40

1970年ロバート・メイ すべてのパラメーターを正確に決定できる単純なモデルにおいてすら、長期的な予測は不可能
   異なる電卓 (n2-2)ⅿ すべて異なる数値になる(極小少数第n位端数切り捨てが電卓によって異なるから)

【酒井仮説】社会全体は、自己相似のスケールフリー構造を持ち、ちょっとずつ異なって、大きく変わっちゃう臨海状況にあるという世界観 (カオス力学)

べき乗数(累乗数)が顔を出す現象はフィードバックがかかった状況だから、論理学的にはアブダクションが重要となる*類構造の発見

そして、自己組織化して臨界状況にいたる人間社会p200201

 ※複雑系ネットワークは、ランダム・混沌ではなく、スケールフリー性、スモールワールド性、クラスター性 すなわち構造をもっている

シェルビンスキーの正四面体=全辺の中間を結ぶと4つの正四面体ができる。これを繰り返すと、形はあるのに、積がない物体となる。      人間社会は、フラクタル構造なのである

【酒井の既知識批判】

これまでの世界観 ランダムモデル統計量に支配される

だから 限定的な 正しい原理 で構成し樹形モデル を描く

しかし、その前提に立って、決まったルールのもとの研究は、研究ではなくて作業であるp167

ランダムモデルは「死の状態」「烏合の衆」を前提としている →ランダムモデルの研究教育は、だからワクワクしない

そうではなくて

生物の進化とは、自己相似(コピー:遺伝)のなかでの差異(突然変異)=無目的試行錯誤の積み重ね p234 である。だから、小さな差異が、どんどん広がり、とんでもないガラクタ状況(臨界)になる

だが、ガラクタが集まり、ある程度の密度になる(臨界)と、一気につながる→おもろい。そんなとき、多様な遊び、毒を知っているアホが、臨機応変に対応して何とかしよる。

成功体験を得たアホは図に乗り、おもろそうな匂いがやみつきになり、さらなるアホ進化するp235

しかし、森栗のように、おもしろさに走り、毒を逆手にとって生きる方法は、実は非効率で、危険、失敗だらけ p163

論理的選択と集中の大学では、排除すべき対象 かも?

だが、

(臨機応変に意味もなく何でも結びつける)エンゲージメント経営が必要なとき
アホが対話の効用(雑談じゃない)によって、イノベーションをもたらす

20世紀科学信仰の偉い人から「対話してどないすんねん」と、どんなにアホにされても、アホが臨界状況の世界を救うんや。

 

 

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2019年4月23日 (火)

玉木妙憂『死に行く人の心に寄りそう』2019年、光文社

p6 救急車をよぶと 24時間以内になくなれば変死扱い、警察介入

p20-5468

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黒田裕子さん「森栗さん、人は生まれたときのように、死んでいくのよ」

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2019年3月 3日 (日)

COプレイス 立ち会議 働く

鯨井康志『「はたらく」の未来予想図』白揚社、2017年
・オフィス じゃなくて、ワークプレイス p24 ⇒学びの大学ではなく、 CO経験のオープンプレイスが必要
・立ち会議の効果 ①時間短縮 ②間身体距離の臨機可動の自由 p98⇒②は、いつでもコミュニケーションデザイン

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2019年2月17日 (日)

子供の死 と 最高の仕事 との背中合わせ

《くるみ割り人形》の原作は、ドイツの幻想小説作家E.T.A.ホフマンによる『くるみ割り人形とねずみの王様』である。.....元来、この物語は自分の子供を幼くして失ったホフマンが、知人の子供たちに即興的に語り聞かせた話に由来すると言われ、第1幕で子供たちにクリスマス・プレゼントを贈る「ドロッセルマイヤー叔父さん」の役は、ホフマン自身がモデルと考えられる。
 チャイコフスキーも、このお伽話(とぎばなし)に切実な意味を見出したひとりである。旅行中に読んだ新聞記事で、彼は実妹アレクサンドラの死を知る。....妹の死をきっかけに、チャイコフスキーは幸福だった幼年時代の想い出をこの物語に重ね合わせたに違いない。2か月間の欧米旅行から帰国した彼は、1か月足らずでバレエの下書きを終えてしまうのである。
 心に痛みを負ったホフマンやチャイコフスキーが、このお伽話に託したものは何なのだろうか。革命前の帝室舞踊学校でロシア・バレエの薫陶を受けた振付師ジョージ・バランシンの次の言葉は印象的である。「人間はその発達の最高の段階で子供に近づくというドイツ人の考えが、彼(チャイコフスキー)は好きでした。……あらゆる人のなかで最良の、最も重要な部分とは、子ども時代から残っているものです」(『チャイコフスキーわが愛』、新書館)。(NHK. 曲目解説 千葉 潤 より)

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2018年10月15日 (月)

研究室閉じこもりが息苦しく、自転車お遍路一周をした基礎工院生N君

再掲 昨12月、基礎工N君は、ちゃらいことは嫌だと、冬遍路を受けた。受講生1名。
夜行バスで窪川駅を6時に降り、約束の札所寺に行くと読経中。寒い冬の朝、待っていると、6時過ぎ、お勤めを終えた森栗、西川教授が現れ、「ゴメン、朝飯、ない」と歩き出す。
 寒いので一生懸命歩く。すると、両教授が足を患う。冬の朝、準備体操もせず一生懸命歩き出せば、痛めるのは当然。
 這う這うの体で、民宿久百々に入った。あのときの、老人二人の介護をしていたN君が、自転車でお遍路一周をしてきたと、報告に来た。
http://morikuri.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/3637-e6e8.html
 実は、就職も決まり、毎日、研究室で実験をしていると、理論的にはできるかもしれない計算、実際は大量の資金が必要だったり、長時間のトライアンドエラーが要ったり、をやっていると、何をやっているのかだんだんかわからなくなり、また、意味の見えない計算をやっているなかで、だんだん人格が歪んでいくのが見えてきた。
 こういうときは、海外放浪かお遍路だが、冬遍路の経験があったので、自転車で廻った。昼は、必ず大衆食堂に入り、いろんな人と交流した。多様な暮らしや、いろんな遍路をする凄い若者に出会った。
 お遍路は、歩いただけ進む、目標は札所という、単純だけど厳しい構造。そのなかで、徐々についていく体力、他人の人生観を聞く中で豊かになっていくコミュニケーション力、生きる実感を体感できた。
 という。

そうか!
お遍路は、やっぱり、大学院の授業なんだ。考え、悩む、専門家のための授業なのだ。
 地域交通まちコミの授業も同様。現場に学生を連れて行こうと思っている。現場に行ってきた人の話を聞こうと思う。
本日、社会人3名(他大学院生、交通事業者、国交省職員)、文学2名、外国語2名、人間科学1名、国際公共政策2名、理学1名、情報1名、工学7名
 まちづくり、コミュニケーションに関心のある、多様な学生が集まってくれて、感激。
 大学の中に閉じ籠っている先生には、どんな意味があるのか理解できないだろうが、学生はしっかりと、この授業の意味を理解している。ブログを、どんどん見ているようだ。
 次回からでも履修、許可。『コミュニティ交通のつくり方』を配布します。著者割1500円を用意のこと。なお、火曜、金曜は確実におりますので、11日以降、研究室にお越しいただいてもOK.。森栗研究室が不在の時は、412寄付講座研究室へ

 なお、9日 13:30- JR住吉 くるくるバス見学。18:30阪急中津駅 ラウンド大阪。 17日17;00- お遍路アプリ(国際公共政策研究科) 18日 妙見口駅9:51 妙見口ー黒川 道路整備現地視察
 関心のある方は、辻助教 <tsujih◎gmail.com>◎は@に変えて まで

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こんな大学院だったらエエなあ・・・/大学院改革

書を捨て、街に出よ(寺山修司)

学生を街のどきどきわくわくに触れさせる、フィールドワークを中心とした大学院教育が展開できたらなあと、個人的に思っている。

c2008年11/21に、こんなことを書いていた。再掲。 フィールドワークは、地域のSR(ISO26000のガイドラインによるすべての組織の社会責任)に従い、USRとして、関西ニーズ、大阪の政策と連携してすすめるべきだ。

とくに、まちなか(中之島センターや大阪駅北ヤードなど)で、社会人高度職業人教育と連動してすすめるべきだ。単なる夜間大学院ではなく、企業マンのサバティカルやキャリアアップと結びついたプログラムを展開できたらエエなあ・・・。EUのエラスムス計画と連動して半期留学した単位がそのまま認められるとか。

たとえば、社会学、経済学、工学、情報学、医学、法学、理学、心理学、文学などのジャンルを越えた学生・教員が、地域のみなさんと一緒になって地域課題を解決しようとするプログラムで、そのプロセスで、異分野間のコミュニケーションデザイン力をつけ、「まちづくりデザイナー」なるキャリアを提供する。昼の現役学生の授業や、環境リスクマネージメントなど他のキャリアも取得できる1年制である。

まとまった時間がない人には、夜間、土日、夏季冬季集中で単位が2年で取得できるようになったら・・・

わくわくするような大学院夢想だが、実際には、昼も夜も土日も働く教員の負担をどうするか、北ヤード教室確保の見込みはと、糾弾されそうだが、夢がなくては、教育はできない。

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2018年10月14日 (日)

教え子の死と尾崎放哉

大学を変えたい と 思い、2013年の記事を、再提出

 埼玉の教え子の訃報を聞いた。やはり、と思った。
ご両親には、時間を置いてお目にかかりたい。
 一年生、自分のプライドの為に苦しんでいるとき、彼と小倉
の旦過市場や門司港、下関の韓国人街を巡った。崩れかけた路地の奥の廃屋に、暮らしを発見した。
 彼は全てを否定し、対峙し、ときに語学大学の厳格さとも妥協し、最後は対峙しきれなかったのか。
 合併して外大から阪大に変わり、卒業前、久しぶりにあったとき、彼は視線をそらした。それはそれで彼が自分の世界を持ったのかなあという程度に考え、最後まで彼をみてやれなかったことが悔いとなる。
 私は出張先の九州で、自己肯定としての虚無と死を、遍路の死場といわれる小豆島で結んだ尾崎放哉を読んでいた。また、生と死に対峙し、愚を生き愚の濁り水のなかをコロリ往生した種田山頭火と対比しようとしている。山頭火は、最後に遍路をして逝った。

 九州で死を研ぎ澄ます放哉を読んでいる偶然に、衝撃を受けた。とはいえ、私は放哉をなかなか理解できない。
  一日物云わず蝶の影さす
  入れものが無い両手で受ける
のように、虚無を通し、透明な死を求める句からは、私の入り込む隙間はない。じゃあ、片手の人はどうなるのか、放哉は両手があるのに何故だと、私は思ってしまう。
  こんなよい月を一人で見て寝る
というが、随筆の口述筆記までさせた妻、馨を絶って、なんで一人なのか。そこまでする透明な芸術の素晴らしさからは、私はするっと避けられる。
 放哉と山頭火は会っていない。いや、山頭火は会いたいと思い、2回、放哉の墓に参っているが、放哉は他人に関心がない。
 
   たった一人になりきって夕空 放哉
   咳をしても一人         放哉
彼はこんな気持ちだったのか。教え子の寂しい死を聞き
   二人で 路地坂探った 下関  茂一
もう頑張らんで、エーよ、S君。何でそこまでやるんや。
 
僕はふらふら→ほろほろ→ぐだぐだ→ぼろぼろ と呑み続け、愚ばかりを繰り返す山頭火の方が好きだ。そんな手もあったのに、何で、一言、声をかけてくれなかった?

 小豆島は、遍路の捨て場。小豆島で放哉は死をみつめた。話すなら遍路も嫌だと、放哉は一人で死んでいった。
 山頭火は、子供の頃に見た母の井戸入水自殺からの零落、挙句の漂泊。故郷の井戸の周り、小郡や湯田温泉に庵を結んで、周辺を乞食していた。
   雨ふるふるさとは裸足で歩く
山頭火は漂白、生の執着・死と対峙し、濁り水のようなぶれる人生を抱えて、しぐれる山を歩いた。そして酒を呑んだ。呑みようは、
   ほろほろふらふらぐだぐだぼろぼろ
である。ぼろぼろになっては、どうしようもない。
  放哉は 放逐・心の放浪、自己肯定としての死を究め、海を眺め、透明な虚無を求めた。
対して、山頭火は  濁り水の濁れるままに澄む
             海は濁りてひたひた我に迫れり
立ち止まり愚に生を求め苦悩する山頭火。
透明な虚無の自己に閉じこもる放哉。
 山頭火の濁りは、どうしようもない私 か?人と世間のなかで身もだえする山頭火が私は好きだ。
    鴉啼いてわたしも一人 
        うしろ姿のしぐれていくか
    けふいちにち風を歩いてきた
    しぐれて人が海を見ている
個を無常のなかに置く、世間に置く
   この旅、果てもない旅のつくぼうし
   はてもない旅の汗くさいこと
わたしも一人 と、わたしに副う人がいる。うしろ姿を見る人がおり、語り合う、迷いあう仲間、世間師がいた。私は、世間師のような大学院教育をしたい。   
 山頭火が同宿し心を通わせた世間師とは、一癖あり、落伍者、強気の弱者である。まるで私ではないか。世間師とは、世間坊主、修行遍路、親子連れ遍路、尺八老人、絵具屋、箒屋、馬具屋、按摩遍路、行商、猿回し、軽業、おえびすさん、印肉屋、占屋、競馬屋、活弁、旅絵師、八目鰻売り、人参売り、勅語額売り、櫛売り、浪花節屋、曲搗き粟餅屋…などである。遍路が多いのは、興味深い。【金子兜太「放浪行乞 山頭火百二十句」】

放哉の辞世は、
  春の山のうしろから烟が出だした
                  S君の密葬日に

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2018年8月15日 (水)

上野武『大学発地域再生』清水弘文堂書房

上野武『大学発地域再生』清水弘文堂書房、2009年
■ジェイムズ・ラブロック「ガイア理論」
    20世紀が積み残した課題…不健康な地球・不健康な地域・不健康な人間(p20)
■地域サステナビリティと健康力 健康な環×健康な身体×健康な心(健康知識) (P40)
    ウェルネス←市民科学(QOLの把握) (p41)
■もうひとつの科学
モード1の科学…個別学問分野の論理で研究の方向を決める(個別分析する)従来の方法
モード2の科学…社会に解放された科学研究。市民、産業界、政府の専門家などが対等の立場で参加し、社会的公共的かつ産業的な複合問題の解決策を領域横断的に探る方法。サステナビリティ学にとって重要な方法で。グローカルな視点の市民科学といって良い。               (P41-42)
 ※市民科学実験フールドとしての大学キャンパス(P43)←個別研究の縄張りの集合としての大学
■LCCレーンコミュニティカレッジ(2年生)(p.p.66-69)
・地域大学(オレゴン大学)への準備教育  ⇒高齢者大学院進学の準備教育(教養プログラム)
・職業スキルアップ(地域企業雇用者再教育(オレゴン州ユージン市))
・生涯学習・語学学習の機会提供 ⇒従来の大学開放講座
・高齢者教育プログラム(老年学、救急学、衛生学、看護学)
・地域コミュニティへの人材育成貢献
■大学の持つもの 知財(研究成果)  実践研究  政策寄与
         人財(学生>教員) PjBLの場  地域寄与
         資財(教育研究の場)共同利用 まちなかラボ提供
                   (p.p.79-83)
    ・ケミレスタウンプロジェクト(p112)
      ・カレッジリンク住宅(p134)
      ・カレッジリンク(p138) 多世代交流
■大学と市民との相互関係
大学⇒学習プログラム  ⇒カレッジリンク住宅入居高齢者・市内の個別高齢者
大学⇒健康管理プログラム⇒カレッジリンク住宅入居高齢者・市内の個別高齢者
大学⇒健康診断     ⇒カレッジリンク住宅入居高齢者・市内の個別高齢者
大学⇐ 授業料      ⇐カレッジリンク住宅入居高齢者・市内の個別高齢者
大学⇐ ボランティア   ⇐カレッジリンク住宅入居高齢者・市内の個別高齢者
大学⇐ 基金寄付     ⇐カレッジリンク住宅入居高齢者・市内の個別高齢者
大学⇐ 投資       ⇐カレッジリンク住宅入居高齢者・市内の個別高齢者(p136)
■健康と学びの連携
 ・柏の葉 千葉大学予防医学センター 健康データセンター 医療コンシャルジュ(P117)
   健康都市構想 柏の葉アーバンデザインセンター
 ・カレッジリンク型コミュニティ 関西大学文学部の高齢者向けプログラム+住宅建設
     世代交流型シニアハウジング(学内定期借地、学生寮複合住宅) (P133)

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2018年8月14日 (火)

ヨイトマケと土木屋

三輪明宏(旧名「丸山明宏」)の作詞作曲歌唱の「ヨイトマケの唄」は、幼少時の友人の亡き母(日雇い労働者)を回顧する歌である。「ヨイトマケ」とは、かつて建設機械が普及していなかった時代に、人力による地固め作業のための不正規集団単純労働の掛け声、およびその労働をさす。技能を必要としないことから、貧困女性も参加する肉体労働であった。日本の近代化ではひろくみられた。同様の近代の女性労働としては、炭鉱の選鉱婦がある。
 個人的感傷的なことであるが、この唄を聞くと、いつも涙が止まらなくなる。
 先日も、テレビでたまたま三輪のヨイトマケの唄を聞く機会があった。いつものように泣きつつ、どの部分が心に刺さるのか、感涙しつつ、冷静に感涙する自分を観察した。
 後からふりかえってみると、各節の最後、「働く土方の あの唄が」「貧しい土方の あの唄が」と「母ちゃんの働くとこを見た」の部分に、自分が感涙していることを自分で発見した。
 私は、父親が早世した幼児期、長屋を女手一つで守っていた、いとさん(一家の長男の嫁)に引き取られたことを思い出していた。昭和34年頃、神戸市長田区の被差別部落と道一つ隔てた表長屋には、3家族19人が住んでいた。私から見て、祖父母、長男家族(6人)、長女家族(6人)、未婚の妹2人、ここに、四男が早世した後家(私の母)と2人の幼児(私を含む)がなだれ込んだ。長男は、市役所に勤めていたが神経の病気で勤務を離れ、長女の夫は不安定な仕立職であり、いとさん一人が外部収入、大家族の家事を支えていた。四男の後家(実母)、亡き夫の勤めていたダンロップに勤務したが、その間、2歳の幼児(弟)の面倒をひきうけたのはいとさんであった。
 いとさんは家事労働を引き受けつつ、賃稼ぎとして工事現場に通っていた。5歳の私は従妹の兄姉と遊んでいたが、いとさんは幼い弟を背負って賃稼ぎに出ていた。あるとき、たまたま兵庫港(と記憶している)の工事現場に、弟と一緒に連れていかれたことがあり、その記憶がヨイトマケの唄で呼び起された。
 こざかしい私は、黙々と働くいとさんが嫌いだった。日焼けした顔で、太って、ちんば(足の障害があり、ひきづりながら歩く)のいとさんが、黙って作るバラ寿司も、梅干し、紫蘇生姜漬けも、工場製品のチキンラーメンや渡辺のジュース粉末のような綺麗な原色でなく、私は汚いと思って、食べたくなかった。(私はすっかり、底辺に反発しつつ工業製品になじんでいた)。しかし、弟は、いとさんの作る食品を「おふくろの味」としておいしいと認識し、今もその味をつれあいに求めているが、私はそう正直にはなれなかった。
 当時、水洗化されたばかりのトイレの便器は大小便共用だった。費用がないのか、長屋のトイレはタイル張りではなく、セメントのままだった。小便がこぼれることもあった。いとさんは、一言も文句をいわず、黙って掃除しつづけた。私は、感謝の言葉も忘れ、黙ったままのいとさんを避けていた。
 いとさんが入院したとき、大阪教育大学で学び、教員一直線、上昇志向の私は、いとさんを病院に見舞うことさえしなかった。母やいとさんのような肉体労働を脱して教師をめざす私には、苦労に苦労を重ねたいとさんに、感謝する言葉さえ、当時は持てなかった。
 その私が、「苦労苦労で死んでった」(ヨイトマケの唄)の歌詞を聞いたとき、いとさんのことが、一気に思い出された。今さらながら、申し訳なく悔いる気持ちがあふれてきた。もう、55年もたとうとしているこの時期に、深い懺悔の気持ちが湧いてくるのである。
  「ヨイトマケ」の唄は続く。
   5.あれから何年経ったことだろう
     高校も出たし大学も出た
     今じゃ機械の世の中で
     おまけに僕はエンジニア
     苦労苦労で死んでった
     母ちゃん見てくれ この姿
     母ちゃん見てくれ この姿
私は、三輪の描く「貧しさ」に抗してエンジニアになる上昇志向の姿に自己を重ね合わせて共鳴しつつ、「苦労苦労で死んでった」いとさんに対して、感謝の言葉すらかけられなかった自分の弱さに懺悔し、嗚咽するのである。
 「おまけに僕は大阪大学の博士」である。土木計画の定性的評価に関する専門家である。行政、企業の専門職として、現場の技術者と議論する機会も多い。そうしたとき、土木技術職の多くが、自らを「土木屋」と自嘲的に自己紹介するに、躊躇することが少なくない。
  考えてみると、建築士、デザイナー、経営士、消防士、看護師、教師、教授が、こうした自嘲的自己表現をすることは、ほとんどない。( ただし、文系教授が、「文学部只野教授」と文系を「役立たないもの」として揶揄することは、「威張る割には役立たない」という自嘲であり、筒井康孝の同名小説以来、ときには表現される。)それ以外では唯一、
  「私は土木屋でして…」
 という自嘲表現がある。この表現には、文系一般職の支配する行政機構のなかで、技術職(土木、建築、機械、電気、農業)に対して、「土木、建築、機械、電気、農業」といった表現以外に、どのような自己表現があるのであろうか。経験的にいえば
  建築…建築師
  機械、電気…エンジニア
  農業…百姓
である。20世紀の社会では農業の地位は低いが、物事の基本、多様な生産活動という意味で、ある意味誇りをもって「百姓」と技術者が事故表現することがある。宮本常一が全国を歩いて村に入るとき「わしゃー 周防大島の百姓じゃ」というのが、同様である。これに対して
  土木…土木屋
である。なぜ、土木のみに「屋」がつけられるのであろうか。
 建築は、建築「家」である(日本建築家協会)。都市計画は技術士であるが、専門家としての地位を明確化するため「都市計画家協会」を組織している。医師は「師」である。教員は教「師」である。看護師は、看護士を「師」に最近、法律改正した。なぜ、土木家、土木士、土木師といわないのであろうか。
 ところで「家」と「屋」はどう違うのであろうか。西山夘三「日本のすまい」によれば、家は持続的に住む建物であり、屋は小屋である。したがって、臨時に都会に出てきた仮の長屋が町屋であり、都市で永久に住む家が町家なのである。また宮本常一「町のなりたち」によれば、町家には仏壇があり、仮の宿の町屋には仏壇がないといわれる。
 このように考えてみると、エンジニアや医師には、都市での永続的な生活が保障されているが、土木には不定期雇用、日雇い、肉体労働のイメージがつきまとうのである。「おまけに僕はエンジニア」とは、不定期雇用の「ヨイトマケ」から上昇成功し、常勤ホワイトとしてのエンジニア職を獲得した姿が描かれているのである。
 土木職が「土木屋」と自己表現するとき、彼らは不定期土木肉体職に対する侮蔑、それと関る自らへの自虐が込められているのかもしれない。
 今日では、機械基礎杭打ちであり、ヨイトマケはない。いや、AIの時代では、電気配線、機械調節も、自動で運営される部分が多くなる。だからこそ、基本的な設営における手作業、現場での専門的実践判断が重要である。こうしたなかにおいて、未だに土木を卑しいものと考える思考の根底には、かなりの時代遅れ、機能的限定合理性のみを唯一の真理と考える、20世紀工業化時代の片りん、偏った志向があるものと思われる。

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2018年4月16日 (月)

民俗学・内省のリスク

大塚英志『殺生と戦争の民俗学』(角川書店、2017)は、地理学者で柳田國男の弟子であった千葉徳爾の民俗学の戦争・憲法との関係や切腹や排せつなど、深い思考を通じて、民俗学を問い直した書物である。

 柳田國男は、民俗学のことを「実験の史学」(『柳田國男全集27』筑摩書房、1990年所収)と呼んでいる。実験とは素養ある者の計画があり、民俗現象の予測観察のことをさしている(大塚、2017年、p167)。柳田は、社会文化を理学でみようとした。したがって、実感を強調する折口信夫を破門したといわれる。

一方で柳田は、相手の言語・動作などばかりでなく、語り手の気持ち・心情を、訪れた者が事故の心を同様な内容とすることに努める、文字通り「情を同じくする」境地に入るようにするのが、柳田の同情である(千葉徳爾『新考 山の人生』古今書店、2006年)(大塚、2017年、p.p.187-188)と、述べている。実験なのか実感なのか、柳田の学問はアンビバレントである。

昭和初期、柳田國男は、民俗学の成立に関して、民俗学という言葉を妙にさけてきた。柳田自身が「民俗学」と自ら語った瞬間、たちまちロマン主義が入り込み、岡正雄が輸入しようとしたナチスドイツ型民俗学に回収されかけた(大塚、2017年、p287)。柳田は、昭和10年前後、民俗学の成立に関して、民俗学という言葉を避けている。郷土研究、地方学、民間伝承論、ルーラルエコノミー・・・。『青年と学問』のように単に「学問」とのみいっているケースもある(大塚、2017年、p.p.290-291)。

千葉は、次のような柳田の言葉を紹介している。緊急時に台風が吹くという民俗は日本にはないのに、集団自己を無理に正当化する「神風なる民俗」、言い方を変えれば神風依存症は、戦時下で作られたものであった。戦時下に「自学」という自らを考える能力(内省)を欠いた国民が、このように創られた民俗文化に妄動した(「新考 山の人生」をまとめている)という(大塚、2017年、p.p.308-309)。

柳田國男は、戦後、中学校社会科教科書『日本の社会』(実業之日本社、1954年)に関わっており、民俗学によって、憲法の芽を生やせられないかと述べ、「公民の民俗学」を構想していた(大塚、2017年、p.334)。

 人々を賢くする集合知としての民俗学の可能性(大塚、2017年、p.336)を考え、どうしても、新しい民俗学の教本をつくる必要がある(千葉徳爾「第二部解説―二つの『民俗学教本案』について」『柳田國男談話稿』法政大学出版局、1987年)と考えたが、実現しなかった。大学に職を得た民俗学者は、民間信仰や化け物の研究にしか関心が向かなかった。

 教科書のための柳田のカードには「公界を社交」「公共事務」「パブリックな場としての酒場」(大塚、2017年、p.p.340-341)があったことを、大塚は柳田の公民の民俗学の証と考えている。

すねた柳田は「みんなは家族や民間信仰に興味をもっているが、これからは教育が重要になる。将来の民俗学は家やムラよりも友人・仲間の関係を重視しなくてはいけなくなろう」(大塚、2017年、p343)、つまり、社交と公共(大塚、2017年、p343)を重視したいと思っていたが、それはならなかった。戦後の都市計画では、民俗学者は、お化け趣味に走り、都市計画社は、公共利益と権利者主張との妥協のなかで、苦しむこととなり、ついぞ、公民は出なかった。

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2018年4月 4日 (水)

小林重敬編著『最新 エリアマネジメント』

大阪大学としてエリアマネジメントをせねばならないかもしれない。そこで、小林重敬編著『最新 エリアマネジメント』(学芸出版、2015年)を読んだ。

エリアマネジメントの肝は、ニクラス・ルーマンがいう「信頼」である。信頼とは「期待される将来の事象のために、それ以外の事象の可能性を制限して行動するというリスクを引き受けること」という。(p12)
→現状の日本の都市エリアは個別商売のパッチワークである。エリマネは難しい。
⇒その解決法は 互酬性である 
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(『マタイによる福音書』7章12節,『ルカによる福音書』6章31節)

だから合意形成
 民主主義としての(マイケル・サンデル) ではなく
 関係主体数の増加によりコスト増大、メリット低減。利益最大値(p178)= は妥協消極的
 了解可能性の高い仮説 森栗「共創まちづくりの仮説提案」『実践政策学』4-1(投稿中)哲学

大阪大学が取り組もうとしているエリアマネジメントとは、エリマネの5原則に則せば
▪️ビジョンを決める→人を育て町を育てる
▪️エリアを決める →自治体内の某都心
▪️誰がマネジメントを行うかを決める
             →人育ては大阪大学が行う。建設ーリノベは、権利者の実践会、TMO等
▪️何をマネジメントするか決める→共創対話の場(カフェ・研究会、PjBL、寄付講義)
▪️マネジメントの収入源を決める→大型申請 将来はコンソーシアムによる官民連携PJ

  エリマネの収入源を後から考えるのは難しい。開発案件なら先にコージェネレーション設備で地域発電・冷暖房管理にイニシャル投資し、それをランニングとして皆で返していく。投資には、ファイナンスを集めれば良い。(小林『最新エリアマネジメント』所収、村木美樹「環境エネルギーの視点から」p.p.182-187)⇒開発案件があるので、検討余地あり。

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2018年3月30日 (金)

学びあいの場が育てる地域創生ー産官学民の協働実践

エリアマネジメントは人育てだと確信する私が参考になったと感じた本。
 富士ゼッロクスの支援により開設された遠野みらいづくりカレッジでは、東日本の被災地域の後方支援地区での価値発見の地域づくりを、コミュニケーション技術を使いすすめようとしている。崇城大学、法政大学、専修大学、東京大学i.schoolなどが入り込み、世界中の学生を公募して学んでいる。
 実践知、集合知を重視し、そのコミュニケーションによる納得をすすめるフィールドワークをすすめている。それは標準化された技術的合理性を超えた、Reflection通して身につく、意味を模索する対話である。(P.P.24-33)
 このあたりは、森栗「実践政策のためのエピソード記述の方法」『実践政策学』3ー1、「共創まちづくりの仮説提案」『実践政策学』4ー1(投稿中)に近い考えである。ただ、私はフッサール現象学と民俗学の方法でこれを仮設しているが、本書では論理学的枠組みはない。
 このフィールドワークでは、ソーシャルキャピタルマップ、ナラティブ地域資源、年表を作ろうとし、それをもとに連携実施を考えているようだ(p.113)。

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2017年12月20日 (水)

公共圏と熟議民主主義,ハーバーマス

公共圏と熟議民主主義 舩橋晴俊・壽福眞美編 法政大学出版局 2013
「市民的公共」を理性的に解決の道を探り政治的に決定して反映させる理性に基づいた社会制御能力の向上を実現する場 →ハーバーマス「公共性の構造転換」 見通しは暗いp4-5
公共的討論は意思を理性に転嫁させる(ハーバーマス1989:114)p97⇒無理があるなあ?
Habermas,Jurgen(1989)The Structural Transformation of the Public Sphere,trans. By Thomas Burger,Cambrige,Mass.:The MIT Press.
公共圏における大学の役割 p197-198
 リテラシー 介入  ☞どのような介入かが問われているのか?

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研究活用の政策学

研究活用の政策学、サンドラ・M ・ナトリー、イサベル・ウォルター、ヒュー・T.O.デェイビス、明石書店、2015
研究は変形プロセスを通じて広がる 研究知見は自ずから証することはできず解釈されるp50-52
だからティンカリング(あれこれ改善のためにやってみる) p87

プロセス効果 p261
気遣うコミュニティ(CTC) 将来の問題行動は子どもの育った地域コミュニティの特定リスク要因(研究によって提示される)にまで追跡することができる 早期介入
暗黙知と形式知 pp222223
 知識プッシュより知識プル=知識変換モード
Photo
 
暗黙知と形式知は実践コミュニティのなかで起きる状況に埋め込まれた行動。コインの裏表。P224
広範な衝動役割としてのエビデンス p322
研究活用は複雑で偶発的である p372

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中原淳と金井壽宏「リフレクティブマネジャー」光文社、2009

reflection(内省) / critical reflection(批判的内省)という分類
           ⇒物語の暴走(大衆化)を警戒する
自分の経験を意味づけること(sense-making)/社会的背景・政治的背景・経済的背景について、もはや自明となってしまったものを問い直す
「retrospective reflection」をなすときは、「過去を想い、現在を分析する」。
「Prospective reflection」のときには「現在を手がかりに、未来を想うこと」がめざされます。
あなたは「想う」。それ故に、あなたは「自己」と「世界」に変化をもたらす。
individual  reflection(内省)/ collective (collaborative) reflection
dialogue(対話)reflection 長岡健先生「対話する組織」⇒Boundary crossing(越境) reflection
振り返りとは 「メタ(俯瞰)」の立場にたって、下界(シャバ)をみて
「What-So What?-Now What?」のプロセス

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サンデル・合意形成・手続き共和国・参加の場・コミュニケーション

マイケル・サンデル『公共哲学』ちくま学芸文庫、2011
  手続き的共和国と負担なき自己 pp234⁻258
倉阪秀史『政策・合意形成入門』勁草書房、2012
 公共世界に奉仕する「私民」でない個人 が
 市民参加はなぜ必要か⇒①ステークホルダーとして
                       ②公共的意識を涵養するため P27⁻29
                            ⇒三番瀬条例をつくる
原科幸彦編著『市民参加と合意形成』学芸出版、2005
 都市と環境の計画づくり では
PP(publicパティシペーション)、PI が言われるが 社会的合意形成でなければならない
 →共同研究 参加の意味論、手法・情報技術、アウトリーチ、計画展開論、議会の位置論、制度設計
    ⇒ よくできている
参加の場P24⁻25 
 フォーラム(情報交換)
 アリーナ(意思形成)
 コート(異議申し立て)
地域問題研究所編『まちづくりにみる住民の合意形成システムの在り方』総合開発研究機構、2001
  市民参加の手続きの制度化 ⇒ やる気のある人、行動への 合意形成の公的支援のあり方
☛担い手が少なくなっているなかでどうするか 助けてほしい人が激増する中、助ける人がいない。
  この論理は、実質的に破綻している
土木学会誌編集委員編『土木とコミュニケーション』土木学会、2004
  土木学会はは素朴すぎる。ほかの動きを知ってみよう、やってみようという程度
   が、その次がない。

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コミュニケーション形式としての物語に関する研究の系譜と公共政策におけるその活用可能性

川端祐一郎、藤井聡(2014)、コミュニケーション形式としての物語に関する研究の系譜と公共政策におけるその活用可能性、土木学会論文集D3(土木計画学),vol.70,No.5(土木計画学研究・論文集第31),p.p.I_123-142

 川端祐一郎は物語研究で博士(工学)を取得した。彼の「コミュニケーション形式としての物語に関する研究の系譜と公共政策におけるその活用可能性」は、ナラティブアプローチがほとんど科学的基盤を持っていない(野口裕二(編)ナラティブ・アプローチ、勁草書房、2009)なかで、学ぶことの多い労作である。

 川端は、Hinchman & Hinchmanを引用し、物語を「出来事を、意味に満ちたやり方で結びつける明確な時系列を持ち、一定の聴き手に対して、世界の存在や人々の経験についての洞察を提示するような言説」と定義している。時系列に則して存在や経験への洞察を与えるものというが、森栗は「実践政策学のためのエピソード記述の方法序論」『実践政策学』№1、2017年 で、エピソード(物語)記述には、歴史的背景のみならず、世界の存在や人々の経験を示す地理的背景、民俗的(生活的)背景を切り分けて記述することを求めている。

 川端は、物語の必要性について、①市民了解 ②イマジネーションを増幅 ③相互理解 ④語り直し(イデオロギーの脱構築)と、まとめている。物語はイマジネーションを増幅させる(②)から相互理解()が可能で、異なる価値観を語り直す(④)ことで、より深い市民了解に展開できる(①)。物語は問題の所在を暗示し、理解を深め、多様な解釈もメタ物語(Roe)として語り直され、それが市民合意につながる。そこに物語の意義があるのだという。                     

 ブルーナーは 論理科学モードの「議論」が真実性を求め、結果として説得を試みようとするのに対して、物語モードのストーリーは、迫真性、真実味による了解(納得)を求めるという。政策において、食品安全、医薬品、地球環境などではリスクに対する真実性が重要であり論理科学モードが政策に有効である。しかし、インフラ整備、教育、医療介護など生活、地域に近い政策では、ベネフィットに対する迫真性、真実味によるが重要で、「何のために生きるんや」「愛着心」といった物語モードが政策的了解(納得)を生むのである。

 しかしながら、現象学的分析(経験の質を問うこと)は、経験を「反省」することによってなされる(貫成人『経験の構造―フッサール現象学の全体像』勁草書房、2003年、p.227)。川端の物語研究ではここが弱い。調査者の科学としての反省(民俗学では内省という)をどのように記述するのか、この部分については、森栗が「実践政策学のためのエピソード記述の方法序論」に仮設と試みを提示している。

 物語分析の方法としては、間主観性あるいは相互主観性のなかにある構造、「確信成立」の条件を確かめることである。そのためには物語の筋(プロット)を確かめ、経験の組織化をして意味を問う。物語の隠喩も、類を示すことである。これは、フッサールの経験からエヴィデンスを取り出そうとすることと共通する(森栗、前掲)。

視点取得による「物語と共感」については、(西山雄大、加藤君子、川嵜圭祐、長谷川功:視点取得と中心性の協働、人工知能学会全国大会論文集27th,2013)に詳しい。 

 

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松浦正浩「実践!交渉学」筑摩書房、2010

最近の交渉学は、経済学のみならず社会学、心理学からの
・合理的な個人を前提としない 怒り 笑い   文化、男女差 など
・相互利益 → 良好な人間関係    勝ち負けじゃない  p20
交渉の罠 p22-24
・不安
・情報の非対称性‥‥‥住民は情報の非対称性を恐れる
・囚人のジレンマ
・選択的知覚と反応的逆評価‥‥‥自分の都合の良い好みを正しいと思い込む土井先生
             だから信用しないと、正しいことをいっていても嘘だと思う
立場に基づく対立から利害(欲望desire)に着目した合意へ p39-40
交渉とは利害調整のことP43
Photo_2
マルチステークフォルダーのときは、ファシリテーションで介入する P121
 栗⇒ステージごとに新たにあらわれるステークホルダー:バリアブルステークホルダーを想定する
BATNA ばかり気にしていると勝者の呪(はやく妥協して、後で悔やむ)P81
 むしろ 目標、夢が大切 Aspirration

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医療 エヴィデンス 物語

老子 陽明http://meta-paradigm-dynamics.net/web/?p=351
医療サービスは、「エビデンス」が確立されていないからといって止めることはできない。

米国の内科学会に掲載された論文のメタアナリシス ※1の結果からは、実証されたエビデンスの耐用年数は5年前後であるとの見積もりも出ている。
EBMの枠内に入ってこない医療は、EBMとは異なる現実をもっており、それ固有の科学的プログラムとして設定可能でなければならない
エビデンスは科学性の保証の裏返しとして、その一時性、反証可能性、訂正可能性にさらされている。そしてこのこと自体は、科学が健全であることの指標であり、そこに問題はない。
むしろその忘却が医療への盲信や権威化に展開しがちであることが問題となる。

このような医療従事者-患者関係における「意味のある物語」の共有および構築は、EBM至上主義と並行的に、「NBM/物語と対話に基づく医療(Narrative Based Medicine)」もしくは単に「NM(Narrative Medicine)」という医療的立場として注目され始めている。

NBMは、ケネスJガゲン等の「社会構成主義(social constructionism)」の動向を背景

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